きなこのブログ

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中曽根康弘が目論んだのは新自由主義の導入

 

中曽根康弘キッシンジャー
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201911300000/

 

中曽根康弘は日本へ原子力新自由主義を導入した政治家である。


「右翼」と見なされているが、アメリカの支配層と深く結びついていた。

 

東京帝国大学を卒業した後、中曽根は1941年に内務省へ入省したが、それから間もなくして海軍経理学校へ入学、海軍主計少佐として敗戦を迎えている。


1945年10月に内務省へ戻り、翌年9月には警視庁警視に昇進するが、その年の12月に依願退職


1947年4月には衆議院議員選挙に出馬、当選して政界入りを果たした。

 

政治家となった中曽根は河野一郎の配下に入り、そこで児玉誉士夫と知り合う。


中曽根は児玉の子分になったと言う人もいる。


その児玉は右翼の大物として知られていたが、ロッキード事件の際にCIAの手先だったことが判明している。

 

 

この事件では中曽根の名前も出たが、検察は動かなかった。

 

中曽根と児玉との関係を浮き上がらせる事件が1972年にあった。


中曽根と旧制静岡高校からの友人だった東郷民安が創業した殖産住宅の株式が上場を巡るスキャンダルだ。

 

この上場を利用して中曽根は一儲けを目論み、児玉が絡んでくる。


このふたりが東郷を破滅へと導くことになった。

 

 

その頃、中曽根は政治家の中でも「大物」になっていたが、彼が権力の階段を登り始めるのはMRA(道徳再武装運動)と関係するようになってからだ。


この団体はCIAとの関係が深い疑似宗教団体で、岸信介や三井高維も参加。

 


そこで中曽根はヘンリー・キッシンジャーを含むCFR(外交問題評議会)のメンバーと知り合い、1950年6月にはスイスで開かれるMRA世界大会へ出席している。

 

ちなみに、その3年後、内閣調査室の初代室長だった村井順がMRAの大会へ出席するためにスイスへ向かっている。

 


村井はボンでアレン・ダレスCIA長官と会い、できて間もない内閣調査室に関する助言を得ることになっていたと言われている。

 

しかし、ボン空港に到着すると村井はイギリスの情報機関員と思われる人物につきまとわれ、ロンドンの税関では腹巻きの中に隠していた闇ドルを発見されてニュースになった。

 

 

ところで、中曽根は1953年にキッシンジャーが責任者だった「ハーバード国際セミナー」というサマー・スクールに参加している。


このセミナーはロックフェラー財団やフォード財団をスポンサーにしていたが、CIAともつながっていた。

 

その当時、キッシンジャーハーバード大学の大学院で学んでいた。


1954年に博士号を取得、その翌年にネルソン・ロックフェラーがスポンサーについたキッシンジャーはCFRの核兵器外交政策研究グループの責任者に選ばれる。

 

キッシンジャーが支配層に取り立てられる切っ掛けは1942年にアメリカ陸軍でフリッツ・グスタフ・アントン・クレーマーという人物に目をかけられたことにある。


ドライバー兼ドイツ語の通訳を探していた第82歩兵師団のアレキサンダー・ボーリング司令官にクレーマーはキッシンジャーを紹介した。

 

ほどなくしてキッシンジャーは情報分隊(後の対敵諜報部/CIC)に配属され、1946年までそこに所属。


そこでアレン・ダレスに誘われ、創設の準備段階だった極秘の破壊工作機関OPCで働くようになる。

 


最初の仕事はハーバード大学で新組織のために働く外国人学生をリクルートすることだった。


彼が「ハーバード国際セミナー」の責任者になった理由のひとつはそこにあるのだろう。

 

一方、1954年3月に中曽根は国会に原子力予算を提出し、修正を経て予算案は4月に可決された。


その背景には、1953年12月にドワイト・アイゼンハワー米大統領が国連総会で行った「原子力の平和利用」という宣言がある。

 

中曽根は1982年から内閣総理大臣を務めることになった。


1976年に逮捕された後も政界で大きな影響力を持っていた田中角栄の懐刀、後藤田正晴内閣官房長官になったこともあり、マスコミは「田中曽根」と揶揄していたが、その実態は「岸影内閣」だとジャーナリストの山川暁夫は看破していた。


後藤田は中曽根のブレーキ役だった。

 

 

 

実際、後藤田の追い落としを狙ったと思われるスキャンダルが浮上している。

 

首相になった中曽根が目論んだのは新自由主義の導入だった。


私有化の促進と規制緩和だ。


その象徴が国鉄の分割と私有化。


最強の労働組合を潰すことだけでなく、国の運営を国家機関から私的権力へ移そうというわけだ。


その後、支配層が目論んだ通りに日本の労働環境は急速に悪化、貧富の差が拡大していくのだが、同時に日本経済の地盤も崩れていく。


それは社会の崩壊でもあった。


その新自由主義的な政策を引き継いだのが小泉純一郎菅直人野田佳彦安倍晋三たちだ。

 

 

中曽根康弘が首相に就任した頃、米国とソ連は全面核戦争の寸前だった
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中曽根康弘内閣総理大臣に就任してから1年後の1983年11月、ロナルド・レーガン政権は戦術弾道ミサイルのパーシングIIを西ドイツに配備した。
NATOがこのミサイルを西ヨーロッパに配備すると決めたのは1979年12月であり、ソ連は警戒を強めていた。
ソ連政府は西側が先制核攻撃を準備していると疑い、1981年5月にKGB(国家保安委員会)とGRU(参謀本部情報総局)にRYAN(核ミサイル攻撃)作戦を始動させる。

そうした中、内閣総理大臣となった中曽根は1983年1月にアメリカを訪問した。
その際にワシントン・ポスト紙のインタビューに応じ、日本を「巨大空母」と表現して問題になる。

同紙によると、中曽根首相は「日本列島をソ連爆撃機の侵入を防ぐ巨大な防衛のとりでを備えた不沈空母とすべきだ」と発言、さらに「日本列島にある4つの海峡を全面的かつ完全に支配する」とし、「これによってソ連の潜水艦および海軍艦艇に海峡を通過させない」と語ったのである。

この「不沈空母」という表現を誤訳だと騒いだ人もいるが、本質的な差はない。
中曽根は日本をアメリカの空母、つまりソ連を攻撃する拠点にすると宣言したのだ。
その時にソ連アメリカからの攻撃に神経をとがらせていた。
そうした情勢を知らなかったとするならば、日本政府に情報を収集する能力がないことを意味し、もし知っていたそうした発言をしたなら戦争を始めるつもりだったということになる。

中曽根の挑発的な発言から3カ月後の1983年の4月から5月にかけて、アメリカ海軍は千島列島エトロフ島の沖で大艦隊演習「フリーテックス83」を実施する。
この演習には3空母、つまりエンタープライズ、ミッドウェー、コーラル・シーを中心とする機動部隊群が参加した。
3空母の終結は尋常でない。

演習では空母を飛び立った艦載機がエトロフ島に仮想攻撃をしかけ、志発島の上空に侵入して対地攻撃訓練を繰り返したともされている。

米ソ両軍は一触即発の状態になったのだが、この演習を日本のマスコミは無視した。
後に筆者は著名な「軍事評論家」にこの演習について質問したのだが、その演習について質問することは「政治的だ」として回答を拒否された経験がある。

この艦隊演習の4カ月後、8月31日から9月1日にかけて大韓航空007便がソ連の領空を侵犯している。
NORAD(北米航空宇宙防衛司令部)が設定したアラスカの「緩衝空域」と「飛行禁止空域」を横切っているが、NORADは反応していない。

その後、航空機はカムチャツカを横切るのだが、その直前にアメリカ空軍の偵察機RC-135とランデブー飛行したと言われている。
カムチャツカではソ連側の重要な軍事基地の上を飛行したが、ソ連側の交信記録によると、カムチャツカを横断する際に機影が一時レーダーから消えている。

さらに領空侵犯機はソ連側の警告を無視して飛び続けした末にサハリン沖で撃墜されたとされている。
通信の傍受記録を読むと、ターゲットになった航空機はモネロン島の上空で右へ旋回しながら降下したと戦闘機のパイロットから報告されているのだが、レーダーの記録を見ると左へ旋回している。
この撃墜を利用してレーガン政権は大々的な反ソ連キャンペーンを展開した。

軍事的な緊張はその後、さらに高まる。
その年の11月にNATO軍は軍事演習「エイブル・アーチャー83」を計画、核攻撃のシミュレーションも行われることになっていたのだが、これをKGBは「偽装演習」だと疑い、ソ連へ全面核戦争を仕掛けてくるのではないかと警戒したのだ。
ソ連側は応戦の準備を始めた。

この時期、アメリカはソ連に対する攻勢を強めていたが、その始まりは1979年7月にエルサレムで開かれた会議だと考える人もいる。
出席したのはアメリカとイスラエルの情報機関に関係した人びとだ。

会議の主催者はイスラエルシンクタンクで情報機関との関係が深いとされているジョナサン研究所だが、その名称は1976年7月、ウガンダエンテベ空港襲撃の際に死亡したイスラエルの特殊部隊員、ヨナタン・ネタニアフに由来している。

ちなみに、ヨナタンの弟は現在の首相、ベンヤミン・ネタニヤフ。
ふたりの父親であるベンシオンはウラジミール・ジャボチンスキーの秘書だった人物である。

その会議が開かれた頃、ジミー・カーター大統領の国家安全保障補佐官だったズビグネフ・ブレジンスキーアフガニスタンで秘密工作を始めていた。
アフガニスタンを不安定化させ、ソ連軍を誘い込み、そのソ連軍をサウジアラビアパキスタンの協力で編成したジハード傭兵と戦わせようとしたのだ。
その目論見通り、1979年12月にソ連軍の機甲部隊がアフガニスタンへ軍事侵攻した。

こうしたアメリカの戦争に中曽根は日本を引きずり込もうとしたのだ。
核戦争が始まらなかったのは運が良かったからにすぎない。

 

中曽根政権下、1984年から高騰した日航株が旅客機墜落後も上がり続けた事情
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中曽根康弘内閣総理大臣だった1985年8月12日、日本航空123便群馬県南西部の山岳地帯に墜落して乗員乗客524名のうち520名が死亡した。
その10年後、1995年8月27日付けのスターズ・アンド・ストライプ紙は、この墜落に関する詳細な記事を掲載した。
日航機に緊急事態が発生した頃、アメリカ軍の輸送機C130が大島上空を飛行していた。
その乗組員だったマイケル・アントヌッチの証言に基づく記事だ。

その記事によると、123便の異常に気づいたC130のクルーは横田基地の管制から許可を受けた上で日航機へ接近を図り、墜落した詳しい場所を19時20分に報告している。
運輸省に捜索本部が設置されたのはそれから25分後の19時45分であり、アメリカ軍が通報していたなら、日本政府は捜索を始めた時点で日航機の墜落地点を正確に把握していたはずだ。

輸送機からの報告を受け、厚木基地からアメリ海兵隊の救援チームがヘリコプターで現地へ向かい、20時50分には現地へ到着、隊員を地上に降ろそうとするのだが、このときに基地から全員がすぐに引き上げるように命令されたという。
日本の救援機が現地に急行しているので大丈夫だということだった。

遠くに航空機が現れたことを21時20分に確認したC130のクルーは現場を離れたが、日本の捜索隊が実際に墜落現場に到着したとされているのは翌日の8時半になってからだ。

その墜落があった頃、日本航空の株価は大きく値上がりしていた。
2000円台で推移していたものが1984年から急に高くなり、事故の直前には8000円を突破していたのである。
兜町では「中曽根銘柄」だと言われていた。
田中角栄脳梗塞で倒れたのはその翌年だ。

某大手証券の事情に詳しい人の話によると、株価を10倍にした上で700万株の時価発行増資を行うというシナリオが生きているので、墜落事故で相場が終わることはないということだった。
実際、事故で5000円を切るまで急落した株価は10月あたりから再び急騰、1987年には2万円を突破している。

中曽根政権が進めていた私有化の一環として日本航空を1987年に「完全民営化」することになっていた。
つまり株式を市場へ放出するのだが、その翌年に700万株の時価発行増資を行うというシナリオになっていたという。
そのための株価操作だったとも言えるだろう。

その一方、日本航空は超長期のドル先物予約をしている。
ドルを買う契約をしたのだが、円高が確実視されていたことから為替取引のプロたちは「クレージー」と言っていた。
損が発生することは間違いないからだ。
利益を得るのは金融機関。
その代償が株価引き上げて時価発行増資だと考えるのが常識的だろう。

 

売国奴中曽根康弘】死去!福島原発事故の主犯【中曽根康弘、読売のナベツネ】から反省の一つさえない!日本国民にこれほどの罪悪をもたらした政治屋が他にいるだろうか!原発再稼働にも必死!慰安所開設の張本人!
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