きなこのブログ

大失業時代が到来しています。大失業の恐ろしさを歴史から学ばなければならない。『大失業は戦争への道につながっている』

事実隠蔽の呪文「陰謀論」

支配者が好んで使う「陰謀論」という事実隠蔽の呪文
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202101210001/

マーチン・ルーサー・キング牧師は1968年4月4日にテネシー州メンフィスのモーテルで射殺された。

 

その丁度1年前、暗殺の1年前、つまり1967年4月4日にニューヨークのリバーサイド教会でベトナムを憂慮する牧師と信徒」が主催する集会があり、主催者は「沈黙が背信である時が来ている」という訴えていた。

その訴えにキング牧師は賛意を示した上で、「なぜ私はベトナムにおける戦争に反対するのか」という話をしている。

 

大半のアメリカ国民はベトナム戦争の悲惨な現実から目をそらし、自分自身を欺いていると指摘、そうした偽りの中で生きることは精神的な奴隷状態で生きることを意味すると牧師は語り、ベトナム戦争に反対すると宣言している。

しかし、ロン・ポール元下院議員によると、​キング牧師の顧問たちは牧師に対してベトナム戦争に焦点を当てないよう懇願していた​という。

http://ronpaulinstitute.org/archives/featured-articles/2018/january/15/who-killed-martin-luther-kingand-why/

 

そうした発言はリンドン・ジョンソン大統領との関係を悪化させると判断したからだ。

 

公民権運動」という枠組みの中で発言し、行動しようということだろうが、そうしたアドバイスを牧師は無視したのである。

人種差別も侵略戦争も根源は同じ。

 

つまり資本を握る富豪が大多数の労働者を支配する仕組みそのものを問題にしなければならない。

 

支配者は逆に、人びとの目をそうした問題からそらさせる必要がある。

 

「労働者階級」を「白人下層中産階級」と呼ぶようになったとニューヨーク誌が指摘したのは1969年4月14日号だ。

 

労働者を人種で分断させようということだろう。


 


支配者は権力犯罪が個人的なものであり、構造的なものではないと被支配者に信じさせようともしている。

 

ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年 - 1968年」というタイトルの報告書を有力メディアへ渡したダニエル・エルズバーグは宣誓供述書の中で、キング牧師を暗殺したのは非番、あるいは引退したFBI捜査官で編成されたJ・エドガー・フーバー長官直属のグループだと聞いたことを明らかにしている。

エルズバーグにその話をしたブラディ・タイソンはアンドリュー・ヤング国連大使の側近。

 

エルズバーグは国連の軍縮特別総会で親しくなったという。

 

タイソンは下院暗殺特別委員会に所属していたウォルター・ファウントロイ下院議員から説明を受けたとしているが、ファウントロイ議員はその話を否定している。

(William F. Pepper, “The Plot to Kill King,” Skyhorse, 2016)

キング牧師が殺される5年前の1963年11月22日にはジョン・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されている。

 

ケネディベトナムからのアメリカ軍を引き上げる決断して好戦派を怒らせるが、その前から支配者たちとの関係は悪かった。

 


アレン・ダレスCIA長官、リーマン・レムニッツァー統合参謀本部議長カーティス・ルメイSAC司令官を含む軍や情報機関の好戦派はソ連や中国への先制核攻撃を計画していた。

アメリカの好戦派が核兵器を手にしたのは1945年7月16日。

 

その日、ニューメキシコ州にあったトリニティ(三位一体)実験場でプルトニウム原爆の爆発実験を行い、成功したのだ。

 

副大統領から大統領に昇格していたハリー・トルーマン原子爆弾の投下を7月24日に許可し、広島と長崎へ投下された。

アメリカは原爆の開発を目的としてマンハッタン計画が秘密裏に進められていたが、それを統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将は1944年、ポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。

(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

そのグルーブス少将に対してローリス・ノースタッド少将は1945年8月30日に核攻撃に関する報告書を提出した。

 

そこにはソ連の中枢15都市と主要25都市を核兵器で攻撃すると書かれていた。

 

9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計。

 

そのうえで、ソ連を破壊するためにアメリカが保有すべき原爆数は446発、最低でも123発だという数字を出した。

(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)

1957年に軍の内部でソ連に対する先制核攻撃を準備しはじめた。

(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)

 

この年の初頭、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊するとしている。

(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、​リーマン・レムニッツァー統合参謀本部議長やSAC司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の後半に奇襲攻撃を実行する予定​だったとしている。
https://prospect.org/world/u.s.-military-plan-nuclear-first-strike-1963/

こうした核攻撃計画の前には大きな障害が存在した。

 

ケネディ大統領である。

 

この大統領はイスラエル核兵器開発にも強い姿勢で臨み、通貨の発行権を政府が取り戻そうとし、巨大資本の横暴も規制しようとしていた。

 

支配層の内部ではケネディに対する怒りが渦巻いていたわけだが、その怒りは1963年11月22日に解消されたわけである。

このケネディ大統領暗殺を調査するために委員会が編成される。

 

委員長はアール・ウォーレン判事、委員はリチャード・ラッセ上院議員、ジョン・クーバー上院議員、ヘイル・ボッグス下院議員、ジェラルド・フォード下院議員、アレン・ダレス元CIA長官、ジョン・マックロイ元世界銀行総裁がいた。

 

そして主席法律顧問はリー・ランキン。

第2次世界大戦中からOSSで破壊活動を指揮、ケネディ大統領にCIA長官を辞めさせられたダレス、世界銀行の総裁を経てドイツの高等弁務官としてナチスの大物たちを守ったマックロイ、J・エドガー・フーバーFBI長官に近かったフォード、CIAとFBIにつながっていたランキンにまともな調査を期待することは無理だ。



リー・ハーベイ・オズワルドが単独で行ったとする報告書をこの委員会が出した3週間後、1964年10月12日に散歩していたひとりの女性が射殺された。

 

ケネディ大統領と親密な関係にあったマリー・ピンチョット・メイヤーだ。

 

銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれていた。

 

この女性が1958年まで婚姻関係にあったコード・メイヤーはCIAの幹部として秘密工作に関わっていた人物だ。

ケネディ大統領が暗殺された直後、マリーは友人でハーバード大学で心理学の講師をしていたティモシー・リアリーに電話し、泣きながら「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった。」と語ったという。(Timothy F. Leary, “Flashbacks,” Tarcher, 1983)

その後、多くのジャーナリストや研究者が事件を調査、ウォーレン委員会とは違う結論に到達した人が少なくない。

 

単独犯行は無理であり、組織的に実行された可能性が高いということだ。

 

そうした調査結果を封印するために使われ始めたのが陰謀論である。

 

その後、どのような出来事でも組織的な権力犯罪という主張が出てくると陰謀論という呪文が唱えられる。

 

支配者が定めた枠組みの中で生きようとする人は、どのような「立ち位置」を演出していようと、この呪文を受け入れる。