評判の悪い「宥和(appeasement)」は重要な外交政策手段だ:アメリカの外国の政権転覆や軍事介入の正当化のために宥和に反対する主張が使われてきた
http://suinikki.blog.jp/archives/88546008.html
外交政策について語る際に、よく引き合いに出されるのが、「ミュンヘンの教訓(lessons of Munich)」だ。
これは、1938年に、
イギリスのネヴィル・チェンバレン首相、
フランスのエドゥアール・ダラディエ首相、
ドイツのアドルフ・ヒトラー総統、
イタリアのベニート・ムッソリーニ総統が
会談を持ち、
ドイツの東方への拡大要求を受けて、チェコスロヴァキアのズデーデン地方をドイツに割譲するという合意を行った。
チェコスロヴァキアの意向は全く無視された。
チェンバレンは戦争を避けた英雄としてイギリスで歓迎されたが、結果としては、ドイツはポーランドに侵攻することで、平和は破綻し、英仏はドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦となった。
「独裁者の言うことを真に受けて、譲歩することで宥めようとしても失敗する」という「宥和(appeasement)」の失敗、として、ミュンヘン会談は「ミュンヘンの教訓」と呼ばれている。
「宥和」という言葉は外交政策分野では評判が悪い。
それは、「独裁者に譲歩しても、つけあがらせるだけで、何の得もない」のだから、「独裁者とは交渉しない、叩き潰すのみだ」ということになるからだ。
しかし、下の記事にあるように、「宥和」は有効な外交手段になり得る。
「ミュンヘンの教訓」で、後任首相のウィンストン・チャーチルに比べて評判の悪いチェンバレンの意図や計画を考えると、ミュンヘン会談での譲歩は間違っていなかったという評価になる(結果は良くなかったかもしれないが)。
そして、「宥和の過小評価」は、アメリカ式の「独裁者とは交渉取引などしない、叩き潰すのみ」という介入主義的外交政策を正当化する際に使われる。
しかし、アメリカは、自分たちに大きな被害が出そうだと考える相手とは事を構えない。
自分たちの被害がほとんど出ないだろうと考える相手には威丈高に対応する。
しかし、それが失敗に終わることがある。
そして、ウクライナ戦争に関しても、計算間違い、認識間違い、誤解を山ほどしてしまい、現状のようになっている。
「独裁者が攻撃的だ(他国を侵略する)」ということも、詳しく調べてみれば、ほとんど当てはまらない。
ヒトラー(ヨーロッパや北アフリカ)やムッソリーニ(エチオピア)といった少数の例を過度に単純化して、一般化してしまうのは危険なことだ。
そして、「だから、宥和してはいけない、交渉取引をしてはいけない」となるのは、外交政策を制限してしまい、結局、武力による排除しかなくなる。
彼らにはそこまでのチキンゲームをやる度胸があるだろうか。
核兵器を積んだミサイルがアメリカ領内に飛んでくる危険性が少しでもある場合、アメリカは攻撃できない。
交渉取引をして、独裁者とも共存すると書けば、非常に悪いことのように思われるが、それが外交であり、国際関係であり、リアリズムということになる。
そして、リアリズムを貫くためには、単純な一般化ではなく、歴史をはじめとする知識を積み重ねての判断が必要となる。
(貼り付けはじめ)
宥和は過小評価されているAppeasement Is Underrated
-ネヴィル・チェンバレンのナチスとの取引を引き合いに出して外交を否定するのは、故意に歴史を無視している。
スティーヴン・M・ウォルト筆 2024年4月29日 『フォーリン・ポリシー』誌
https://foreignpolicy.com/2024/04/29/appeasement-is-underrated/
私は検閲には反対だが、政治家や評論家たちがネヴィル・チェンバレンやいわゆる「ミュンヘンの教訓(lessons of Munich)」を引き合いに出して、自分たちの提言を擁護するのを止めれば、ここアメリカでの外交政策論争は劇的に改善するだろう。
この歴史的エピソードが、今日アメリカが何かをすべき理由を説明していると言われるたびに、私はいらない商品を売りつけられたのではないかと疑いたくなる。
私が何について話しているか、読者の皆さんはお分かりだろうと思う。
今から約86年前、当時のイギリス首相ネヴィル・チェンバレンがミュンヘンでナチス・ドイツの代表と会談したのは、ドイツにスデーテンラント(当時のチェコスロヴァキアの一部で、ドイツ系民族の割合が多い)を獲得させれば、アドルフ・ヒトラーの修正主義的野心が満たされ、「我々の時代の平和(peace for our time)」が保証されると考えたからだと思われる。
しかし実際にはそうならなかった。
ヒトラーはチェコスロヴァキアの残りを占領し、1939年9月にはポーランドに侵攻した。
その結果、第二次世界大戦が勃発し、数百万人が悲惨な死を遂げた。
それ以来、政治家や評論家たちは、ミュンヘンでヒトラーを阻止できなかったことを、おそらく世界史上最も教訓的なエピソード、二度と繰り返してはならない国家運営の誤りとして扱ってきた。
これらの人々にとって、いわゆる教訓とは、独裁者は不変の攻撃性を持っており、決して彼らを宥めようとしてはならないということである。
それどころか、彼らの目的には断固として抵抗しなければならず、現状を変えようとするいかなる試みも断固として阻止し、必要であれば完膚なきまでに打ち負かさなければならない。
ハリー・トルーマン元米大統領は、朝鮮戦争へのアメリカの参戦を正当化するためにミュンヘンを持ち出し、アンソニー・イーデン英首相(当時)は1956年のスエズ危機の際にエジプト攻撃を決断した。
ミュンヘンの教訓は今日でも大いに流行している。
今年2月、大西洋評議会のフレデリック・ケンペ会長は、ウクライナに関する議論に「宥和の悪臭(stench of appeasement)」が漂っていると書いた。
そしてつい先週、米連邦下院外交委員会のマイケル・マコール委員長は、ウクライナに対する最新の支援策の採決を控えた同僚たちに次のように促した。
「皆さん、自分に次のように問いかけて欲しい。私はチェンバレンか、それともウィンストン・チャーチルか?」
はっきりさせておきたい。
もし私が米連邦議員だったら(これは確かに恐ろしい考えであるが)、私は、窮地に陥っているウクライナ人にさらなる援助を提供することを支持するだろう。
しかし、それは、ロシアのウラジーミル・プーティン大統領が、ナチス・ドイツと同じようにヨーロッパ全土で戦争を仕掛けることに熱中している、もう一人のヒトラーであると私が考えているからではない。
1938年にミュンヘンで起こったことは、今日私たちが直面している問題とはほとんど無関係であり、それを持ち出すことは、情報を与えるというよりも誤解を招く可能性が高い。
これはバンパーステッカーに書いてある「シリアス・アナリシス(Serious Analysis)」のようなことだ。
第一に、ミュンヘンの教訓を引き合いに出す人は、1938年に実際に何が起こったのかをほとんど理解していない。
その後の神話とは対照的に、チェンバレンはヒトラーについて世間知らずではなかったし、ナチス・ドイツがもたらす危険性にも気づいていない訳ではなかった。
とりわけ、チェンバレンは1930年代後半のイギリスの再軍備の取り組みを支持した。
しかし、彼はイギリスが戦争の準備ができているとは考えておらず、ミュンヘンでの合意は英国の再軍備を進めるための時間稼ぎの方法であると考えていた。
ミュンヘンで合意された内容が、ヒトラーを満足させ、ヨーロッパの平和を確保することを望んでいたが、それがうまくいかなかった場合、最終的に戦争が起こったときにイギリス(とフランス)はより有利な立場で戦うことになるだろう、とチェンバレンは考えていた。
チェンバレンの考えは正しかった。
1940年の春までに、イギリスとフランスはドイツよりも多くの兵力を準備しており、低地地方の戦いでの彼らの急速かつ予想外の敗北は、戦車、兵員、戦闘機の不足のせいではなく、戦略と諜報の失敗によるものだった。
更に言えば、1938年により強硬な姿勢を取ったとしても、ヒトラーの戦争開始を阻止できなかったであろう。
ヒトラー自身も、ミュンヘンでの成果に深く失望していたことが分かっている。
ヒトラーは、開戦理由(casus belli)を手に入れることを望んでいたが、チェコスロヴァキアを軍事的に粉砕するという、彼が熱望していた機会は、チェンバレンの外交によって否定された。
ヒトラーが攻撃を命令していれば、侵略に反対したドイツ軍将校たちは、彼を追放できたかもしれないが、たとえ試みられたとしてもそのような陰謀が成功するという保証はない。
不愉快な真実は、ヒトラーは遅かれ早かれ戦端を開こうと考えていて、1938年の結果が異なっていても、第二次世界大戦は防げなかったであろうということだ。
第二に、ミュンヘンの教訓への永続的な執着は、1つの個別の出来事に重きを置きすぎており、大国間で生じた妥協や合意を本質的に無関係なものとして扱っている。
歴史を利用するこれほど愚かな方法を想像するのは困難だ。
このことはつまり、あるエピソードを普遍的に有効なものとして扱い、別の物語を伝える出来事を注意深く無視することである。
中華料理店でたまたまおいしくない食事を食べたとしても、全ての中華料理店はまずいと結論付け、二度と中華料理店などでは食事をしないと決意するのは愚かなことだと分かるだろう。
しかし、指導者や評論家たちは、あたかもミュンヘンの教訓だけが歴史から得られるものであるかのように、ミュンヘンでの出来事をこのように利用している。
より具体的に言えば、ミュンヘンの教訓について、繰り返し激しく議論することは、大国がライヴァル国と相互に利益をもたらす協定を結ぶことで、戦争をせずに自らの安全を確保した、全ての機会を都合よく切り捨てることになる。
私たちは、適応の成功例を見逃しがちだ。
なぜなら、結果が目立ったものでなくても、人生は続いていき、私たちの注意を引く大きな戦争が起こらないからだ。
しかし、この種の「非出来事(nonevents)」は、国家が意見の相違を解決できずに戦争に突入したというより、劇的な状況と同じくらい有益である可能性がある。
宥和の成功例を探している?
中立宣言(declaration of neutrality)と引き換えにソ連軍を同国から撤去させた、1955年のオーストリア国家条約はどうだろうか?
あるいは、軍備競争を安定させ、核戦争の可能性を低くするのに役立った、アメリカとソ連の間で交渉された、各種の軍備管理条約(arms control treaties)について考えてみよう。
ジョン・F・ケネディ米大統領は、ソ連の最高指導者ニキータ・フルシチョフがキューバに設置しようとしていた核搭載ミサイルについて、フルシチョフがそれらを撤去する代わりに、トルコに配備していたジュピター・ミサイルを撤去することに同意することで、ソ連の最高指導者ニキータ・フルシチョフを宥めた。
リチャード・ニクソン米大統領とヘンリー・キッシンジャー国家安全保障問題担当大統領補佐官(当時)は、中国の最高指導者の毛沢東が、冷酷な独裁者であり、数百万の人々の死に責任があったにもかかわらず、毛沢東率いる中国との「一つの中国」政策(“One China” policy)に合意した際に、同様のことを行った。
これは冷戦におけるアメリカの立場を改善する動きだった。
何百万もの人々の死の原因となった。
そして、歴史家のポール・ケネディがかなり前に主張したように、大英帝国がこれほど長く存できた理由の1つは、潜在的な挑戦者に対して限定的な譲歩をする、つまり、彼らを宥めようとする指導者たちの意欲があったことで、それによって、直面する敵の数が減ったからだ。
帝国の領土を複数の敵から同時に防衛しようとする負担を軽減した。
1938年に焦点を当てるのを止めて、より広範囲に目を向けると、時代を超越していると思われるミュンヘンの教訓は、はるかに説得力がなくなるように思われる。
第三に、ミュンヘンの教訓が独裁者への対処法を教えてくれているという主張には、注目すべき矛盾が含まれている。
第二次世界大戦の犠牲とホロコーストの恐怖を考えると、当然のことながら、私たちはヒトラーを歴史上最も邪悪な人物の1人と見なすようになった。
良いニューズは、ヒトラーほど堕落して、無謀な指導者は珍しいということだ。
もしそうだとすれば、そして、ヒトラーの誇大妄想(megalomania)、人種差別(racism)、リスクを冒す自殺願望(suicidal willingness)の組み合わせが、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の主な原因であるとすれば、ミュンヘン会談は広範囲に影響を与える非常に代表的な出来事としてではなく、次のように見られるべきである。
この非常に珍しい出来事は、大国間のほとんどの相互作用についてはほとんど何も語っていない。
私たちは独裁者全てをヒトラーであるかのように扱うのではなく、彼のような指導者が稀であることに感謝し、今日私たちが直面している指導者に賢明に対処することに焦点を当てるべきだ。
全ての独裁者が同様に野心的で、攻撃的で、リスクを受け入れ、危険であると考える理由はほとんどない。
確かに、フランスのナポレオン・ボナパルト、イタリアのベニート・ムッソリーニ、そして大日本帝国の軍事指導者たちなど、世界舞台(world stage)で大問題を起こした独裁者も数人いるが、他の著名な独裁者は、民主政治体制の指導者たちほど、武力行使をする傾向はなかった。
ミュンヘンの想定される教訓は、何が国家をそのように行動させるのかについての単純化した見方にも基づいている。
この政策を発動する人々は、独裁者たちは常に他国と戦争を始める機会を狙っており、独裁者たちを阻む唯一のものは他国(特にアメリカ)が独裁者たちに立ち向かう意欲だけであると想定している。
しかし、ほとんどの指導者にとって、軍事力で現状維持(status quo)に挑戦するという決定は、脅威、能力、機会、流れ、国内の支持、軍事的選択肢などのより複雑な評価から生じており、指導者たちの計算では、他国がそれに反対する可能性はその計算の一項目にすぎない。
ミュンヘンの明白な教訓は、独裁者を決して宥めるべきではないということだが、バイデン政権は、2021年後半にプーティンを宥める努力をせず、代わりに様々な抑止力の脅しを行い、プーティンは本格的なウクライナ侵攻を強行した。
同様に、アメリカは、1941年に日本を宥めなかった。
日本への圧力を徐々に強め続け、日本からの要求を再検討することを拒否した。
ミュンヘンの教訓は忠実に守られましたが、その結果は真珠湾攻撃となった。
ミュンヘンの教訓への執着はコストがかからない訳ではない。
アメリカが嫌う全ての独裁者をヒトラーの生まれ変わりであるかのように扱うことは、アメリカの利益を促進し、戦争のリスクを軽減する可能性のある、堅実な妥協を追求することをより困難にする。
例えば、イラン・イスラム共和国をナチス・ドイツのシーア派版とみなすことは、イランの核開発計画を後退させた協定を弱体化させ、最終的には破壊することに貢献し、イランは今日、核兵器保有に大きく近づいている。
そのアプローチはアメリカや中東地域の同盟諸国の安全を高めたのだろうか?
同様に、プーティンをヒトラーの生まれ変わりだと考え、イギリスのチャーチル首相(チェンバレンの後任)のように行動すべきだと主張することは、ウクライナの更なる破壊を避け、アメリカが他の優先事項に集中できるような外交的解決策を得ることを難しくする。
ミュンヘン会談のアナロジー(類推、analogy)は、外交的なギブ・アンド・テイクのいかなる形も侵略への誘いのように思わせることで、アメリカ政府の高官たちが持つ選択肢を、要求を出すか、脅しをかけるか、武器を送るか、自ら戦闘に参加するかに限定している。
しかし、このように手段の選択肢を限定する理由は何だろうか?
宥和は常に良い考えであるだろうか?
もちろんそうではない。
指導者たちは、力の均衡(バランス・オブ・パウア)が相手に有利に大きく変わるような譲歩をすることには特に注意すべきである。
相手に有利になるような譲歩をすれば、相手は将来的に譲歩を要求しやすい立場に立つことになるからである。
この種のいわゆる宥和は、他に選択肢がない限り避けるべきだ。
実際、1950年に次のように指摘したのはチャーチルだった。
チャーチルは次のように述べた。
「宥和それ自体は、状況によって、良い考えとも、悪い考えともなり得る。弱さと恐怖からの宥和(appeasement from weakness and fear)は、同様に無駄であり致命的だ。力からの宥和(appeasement from strength)は寛大かつ高貴であり、世界平和への最も確実かつ唯一の道かもしれない。」
アメリカの多大な強みと有利な立地を考慮すると、アメリカの外交政策当局者たちは一般に「寛大で高貴な(magnanimous and noble)」道を模索し、慎重に検討された交渉と相互調整のプロセスを通じて、価値観や興味が自分のものと相反する敵対者との相違を解決しようとするべきである。
外交政策コミュニティが「ミュンヘンの教訓」に対する特有の執着を捨てれば、このアプローチはずっと容易になるだろう。
早ければ早いほど良いと私は言っておきたい。
※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。ツイッターアカウント:@stephenwalt
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