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「戦わない野党に「闘う野党の復活」を求める」 櫛渕万里衆議院議員の身上弁明演説

「闘う野党の復活を」――なぜ壇上での抗議に至ったか れいわ新選組櫛渕万里衆議院議員の演説(全文)
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/26710

私を懲罰委員会に付するの動議につき、身上弁明をおこなう。
 

まず5月18日の壇上における行為について、議場の皆様にお詫び申し上げる。

 

国権の最高機関である国会において、言論の府として、議会制民主主義の根幹を支える院の秩序とルールは、本来尊重されるべきものであることに深く同意する。
 

私としても考えに考え抜き、党の内部でも真摯な議論を重ねた結果、政治が暴走するその危機に対して、やむにやまれず今回の行動に至った。
 

最後の決断として背中を押したのは、憲法の前文だった。
 

「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」

いうまでもなく国会議員は、国民の代表者としてこの議場に臨んでいる。

 

国民の厳粛な信託に本当に応えているか。

 

国民は福利を享受できているのか。

 

私たちは、国会の中でも外でも、常に国民のことを念頭に置いて行動しなければならない。
 

「個人の尊厳」や「健康で文化的な最低限度の生活」がすべての人々に保障されるよう国会は機能しているのか?
 

平和主義を掲げた憲法の規範に沿って、国会で徹底した議論がおこなわれているのか?
 

すべての国会議員は公務員として「全体の奉仕者」たりえているのか?
 

今回も、このような自問自答を重ねた。

 

先ほどのべた通り、院のルールは尊重されるべきものだ。

 

しかし国会における秩序とルールを守ることと、国民の代表として求められている行動との間に大きな齟齬(そご)が生じた場合に、どうすべきか――。
 

今回の私の悩みは、すべての国会議員に共通するのではないかと思う。

今から13年前の2010年5月12日、内閣委員会で国家公務員法改正案の採決がおこなわれたときはどうだっただろうか? 

 

当時野党だった自民党議員が委員長席の周辺に詰めかけたが、多くの方がプラカードを掲げていた。

 

なかには、天下り根絶をなぜやらない!」というプラカードもあった。

 

再び自民党政権となって10年以上たった今、元事務次官や現役の航空局長など、国交省ぐるみで天下りを強要してきた疑惑があることを考えると、誠に興味深いものがある。



2015年7月15日、平和安全法制特別委員会はどうだったか? 

 

この時も野党だった民主党議員が、「強行採決反対」といったプラカードをもって委員長席をとり囲んだ。

 

これらのときに委員室に無許可でプラカードを持ち込んだ人は今もこの議場にいらっしゃると思う。

 

なかには、党の代表を務める方もいるかもしれない。

 

あのとき「議会の秩序とルールを守らなくていいのか」という葛藤を抱えながらも、「こんな法律は絶対に通してはいけない。なんとしても止めなければいけない」と、国民の代表として求められている姿の方を優先させた結果、委員室での行動に至ったはずだ。
 

ここで胸に手を当てて考えてみてほしい。

 

あのときほどの熱い思いで今国民のために闘っているか?――と。


 

 

もちろん国会は言論の府だ。

 

しかし、委員会や本会議で反対を討論する正攻法だけでは、どうやっても止めることができない。

 

そうしたときにどうすればいいだろうか?
 

選挙で勝って議席を増やし、与野党議席が拮抗して抗えるようになるまでは、どんなに国民にとってひどい法律が作られても仕方がないと、あきらめるしかないのだろうか?

岸田政権によって、閣議決定で、国の安全保障政策が大転換したり、

東電福島第一原発の事故から12年しかたっていないのに、その教訓とした運転期間原則40年ルールを急に60年超えも可能としたり、

国民のかけがえのない健康保険証を廃止しマイナンバーカードに一本化したり、

迫害の恐れのある外国人を強制送還することを可能とするなど、

今ほど危機的な状況はない。

さらにこの間、防衛予算の大幅増の議論を進める一方で、後期高齢者医療保険料の負担を増やす法律が成立してしまった。

 

失業給付などに使われる雇用保険料の労働者負担も引き上げ。

 

コロナの5類化を受けて、現在は無料としている検査や外来、入院時の費用に患者負担を求めることも決まった。

 

そして政府はさらなる負担増として、子育て支援財源を社会保険料の負担増でまかなう見込みだ。

こうした状況に対して、れいわ新選組は委員会での質問はもちろんのこと、今年度の予算には「組み替え動議」も提出して反対討論もおこなうなど、徹底して言論で闘ってきた。

 

限られた時間での質問では一分一秒を決して無駄にすることなく議論してきた。
 

そのうえで、たった一人の小さな力でも、あきらめずに国民の生活と命を守るためにできることは何か、と考え抜き、やむにやまれず行動に及んだというのが、今回の経緯だ。

国を滅ぼす防衛増税
 

今とくに問題なのが「防衛財源確保法案」だ。

 

5年間で43兆円の防衛費増額をおこなうためのものであり、その使途は、アメリカから言い値で大量の武器を買い、復興税の流用で被災地を無視したあげく、苦しんでいる国民に増税を押しつけ、日本を戦争経済でボロボロにさせる、絶対にやってはいけないものだ。

また「防衛産業基盤強化法案」も論外だ。

 

これは単に、国内防衛産業の衰退防止だけではなく、海外への武器輸出を国が支援する内容や、戦後初の防衛産業の国有化を可能にする条項まで盛り込まれた、日本が複合的に軍需産業の促進に突き進む恐れのある、極めて問題の大きい法案だ。

この国に生きる人々の暮らしよりも、日米防衛協力の強化にお金が流れ、防衛装備品の輸出の支援によって、日本全体が戦争経済化していく、すなわち死の商人となりかねない。

安保3文書によって、平和国家としての日本のありようが180度変わり専守防衛は脅威対抗型の安全保障戦略と形を変える。

 

敵基地攻撃能力の保有を可能とし、日米一体化のもと、米国が始める戦争の最前線に、沖縄が、日本が、立たされることになる。

 

そのときの壊滅的な被害を、今でさえ苦しむ国民の暮らしのことを、わずかでも想像して、これらの予算や法案採決に臨んでいるだろうか?

 

 

核抑止力の安保は神話

確かに、わが国周辺の安全保障環境は厳しさを増している。

 

しかし、それに対し、「武力には武力を」「核兵器には核兵器を」というかのごとく、防衛能力を拡大し、さらには核抑止の拡大や核シェアリングが進んでしまえば、日本を含む北東アジアが「核軍拡競争」新たな火種の地域になりかねない。
 

私は昨年、ウィーンで開かれた核兵器禁止条約の第1回締約国会議に出席した。

 

そこに集まる国会議員会議で、その懸念を伝えたところ、NATO加盟国の議員からは「日本で核共有の議論があるというが、『核兵器』がシェアされることはあり得ない。保有国の兵器が押し付けられるだけで、押し付けられた側には何の権限も与えられないという声があった。

そして会議声明では、「核抑止と核シェアリングを安全保障政策として正当化する動きを深刻に懸念する」との表明がなされている。

また、先日は超党派で構成される「北東アジア非核兵器地帯条約を批准する国際議員連盟」のソウル会議へ、先輩議員の先生方と参加し、韓国の国会議員と議論してきた。

 

朝鮮半島でさらに高まる危機を共有し、今こそ、この北東アジアを「核の傘」から「非核の傘」にしていく努力が必要であることで一致し、地域に共通の安全保障の枠組みを作るため努力する必要性を確認し合った。
 

平和憲法非核三原則をもち、唯一の戦争被爆国である日本が、二度と戦争をせず、国の確かな安全保障と、地域の平和と安定に貢献できる道は何か?
 

アメリカに追従するだけでなく、時代の危機感を共有するすべての人々と知恵と力を出し合い、もっと国会で真剣な論議を尽くし、国民の命と尊厳を守るために、私はあらゆる努力と行動をしていく決意だ。

なぜ苦しむ民を救わぬ

そして今、なによりも政治がやらなければならないことは、この国に生きる、今苦しんでいる人々を救うことだ。

わが国は30年も賃金が上がっておらず、日本だけが経済成長していない。

 

コロナになる前から、生活に苦しいという人が54%、母子世帯では87%。

 

また、子どもの7人に1人が貧困と、G7ではアメリカに次いでワースト2位だ。

 

さらに、年金支給額がどんどん減らされた結果、「年金だけで生活している」と答えている高齢者は、いまや4分の1以下になってしまった。

そのうえにコロナと物価高で、いわば三重苦といえる非常事態に国民生活は陥っている。

 

実質賃金は12カ月連続でマイナス。

 

昨年一年間にみずから命を絶った人は、全国で2万1881人、小中高生の子どもの自殺者は過去最多を記録した。

これから夏が始まるのに電気代が最大40%も高くなるなど、国民を熱中症で死なせてしまうのか? 

 

秋にはインボイスフリーランスや事業者に増税を課して廃業させてしまうのか? 

 

少子化対策社会保険料の負担増とすれば、子どもの数はますます減っていくだろう。

 

そうなれば、国家自滅の道だ。

また、なぜ海外の輸入を守るために、牛を殺し酪農家を離農させてしまうのか? 

 

食料自給率はたったの38%。

 

余った乳製品を政府が買いとって、それを生活の苦しい人々に配る救済策をおこなえばいいではないか。
 

食料も自国で確保できない政権に、安全保障を語る資格があるのだろうか? 

 

砲弾はあるが食料がない――それは先の大戦の歴史の教訓ではないか。

アメリカから武器を爆買いし、ミサイルや銃は揃えるけれど、国内に目を向ければ、86歳のお年寄りがコンビニでおにぎり1個万引きして逮捕される――それが今の日本社会の現実だ。

 

あまりにもおかしすぎる。

なぜ政府は、防衛費倍増には素早く財源を確保するのに、国民や事業者や酪農家を救うためには、財源を確保しないのだろうか?
 

なぜ原発推進のためには大量の新たな国債を発行するのに、子どもたちのため、少子化を克服するためには、積極財政で大胆に人に投資しないのだろうか?

やればすぐにできる。

 

本気になれば、やれるのだ。

 

それが岸田政権の財政運営でわかったのだから、徹底的に、野党が一丸となり、この国に生きるすべての人々の権利と生活を守るために闘おうではありませんか。

それを国会の外にも可視化できるよう、行動を起こそうではありませんか。

日々の生活に追われ、厳しい現場を必死に生き抜いている人たちと手をとりあい、政治を変えていく。

 

これが民主主義ではないのか。

 

それをリードするのが、国民に付託された国会議員の役割、国会の現場を知る議員の務めであると信じて行動したのが、懲罰動議に付された今回の私の行動の真意だ。

「仲間意識」より国民の信託に応えよ

私は、今回のことを機に、自分が最初に政治を志したときのことを思い出してみた。

 

NGOで17年間、人道支援や平和構築の活動に携わり、友人にも血縁にも政治家のまったくいない環境で育った私が政治を志した理由――それは政治の力で「いのち」を救うことができるからだ。

 

戦争をさせない、貧困で苦しむ人に手を差し伸べる、環境破壊を止める、すなわち、すべての「生きる力」を支えることができるのが政治である、と信じて、この世界に飛び込んだ。

もう一つ、理由がある。

 

世界80カ国の現場を行きながら気付いたのは、日本が先進国でありながら、ほぼ一党の長期政権が続き、政権交代の文化がない、つまり健全な民主主義が機能していない国である、ということだ。

そして、独裁や軍事政権から民主政権を樹立した他国の人々や、成熟した民主主義を確立している国々の人々と対話をして気付いたことがある。
 

それは、闘う野党がいなければ、民主主義は機能しない、ということだ。

今回、G7広島サミットが開かれた。

 

自由と民主主義の価値を共有する、としているG7のなかで、政権交代の政治文化が定着していないのは日本だけだ。

 

選挙があれば、民主主義なのではない。

 

民主主義の目的は、政治が常に国民の手の中にあるということであり、そして、政治は常に国民のことを考えている、という状況にあることだ。

選挙があるのに政権交代がないということは、選挙そのものが目的化、政治化していることであり、闘う野党の不在こそが、民主主義を後退させ、この日本を衰退させてきたのではないだろうか。

歴史の大きな転換点に、国民から負託を受けた国会議員として、私は改めて今一度勇気を出して、議場の皆さんへ呼びかける。

闘う野党を復活させ、苦しんでいる国民の生活と命を救おうではありませんか。


日本の民主主義を正常化させて、政治の暴走を止めようではありませんか。
 

闘う野党の復活――それ以外に、政治の暴走、国家の衰退を止める手段はない。
 

最後に、ケネディ大統領の言葉を紹介する。
 

「われわれは真に勇気ある人間であったか?『敵に対抗する』勇気のほかに、必要な場合には『自己の仲間に対しても抵抗する』だけの勇気を持っていたか?」

私の壇上での行動に、「なぜ、連帯すべき野党まで批判したのか」と問われることがあった。

 

しかし、冒頭にのべた通り、国会議員は国民の厳粛な信託を受けている。
 

真の連帯とは、単なる仲間意識によるものではなく、国民の信託によってつながるべきものだ。
 

ならば、仲間である野党が国民の信託に十分に応えていないと判断したときには、仲間に対しても抵抗することこそ自己に与えられた役割ではないか。

議会のルールや秩序も重要だが、本当に応えるべきは国民の信託であるとの意識を呼び覚まし、「闘う野党の復活」に少しでもつながるのではないか。

 

こうした考えに基づく行動だった。

以上、行き過ぎた面があった点は改めてお詫びするとともに、やむにやまれぬ行動であった私の真意をぜひ汲みとっていただきたい。

 

そうお願いして、身上弁明とする。

(2023年5月25日、衆院本会議での身上弁明より)

 

 

 

品位を貶めているのは誰か
https://www.chosyu-journal.jp/column/26703

れいわ新選組所属の櫛渕万里衆院議員にたいする懲罰動議与野党(自民、公明、維新、国民、立憲)の提案によって衆議院にかけられ、賛成多数により懲罰委員会に付されることが決まった。

 

壇上における櫛渕の「弁明」というよりは全国会議員への呼びかけにも似た訴えは内容上も極めて明瞭で、この国の針路、国民生活の窮状を憂うがゆえの「闘う野党の復活」を求める叫びは「闘わない野党」への痛烈な批判を伴うものでもあった。

 

口では発しなかったものの、オブラートをすべて溶かしてみたら、プラカードどころか今度は本会議場の壇上に立って、内容においては「茶番も大概にせいよ!」と喝破しているのである。
 

腹を括(くく)ったれいわ新選組共同代表の貫禄とでもいおうか、飛びかうヤジもなんのその、堂々たる立ち居振る舞いを見せてもらった気がした。

 

このような局面で支配の権威に怯え、日和見主義から排外主義に転化して仲間の攻撃を始めたり、あるいは多勢に無勢だからといって尻尾を巻いて逃げていくのではなく、堂々とその思いを述べ、言葉は選びながらも批判すべきは批判するというのは、まさに言論の府において貫くべき姿勢だったと思う。

 

「たかだかプラカードを掲げたくらいで懲罰するというのなら、何度でも懲罰しやがれ!」

 

くらいの気構えで挑む方がむしろ潔いと思うし、れいわ新選組の存在意義はあの国会で誰が相手であろうとひるむことなく国民の代表として闘うことにこそあるわけで、今回の「弁明」という名の演説を見て、人間、何事も腹を括ってからが本番である――とつくづく感じたのだった。

今回の懲罰動議は、本会議においていくつもの重要法案を明けて通しながら、大臣の不信任決議等々でお茶を濁している様について、衆議院の採決のさいに櫛渕が「与党も野党も茶番」というプラカードを掲げたことに端を発している。

 

それに対して、「野党も茶番」図星だったのか立憲民主党も含めた与野党が同調して動議を提出することとなった。

 

自民、公明、国民、維新と群れになってれいわ新選組を叩きに行く立憲民主党の存在感こそがむしろ浮き彫りとなり、ある意味、正直にその感情が可視化されたという点ではわかりやすいものでもあった。

 

そんな既存の与野党いわく懲罰理由としては「議員は議院の品位を重んじなければならない」という衆議院規則に引っかかっているそうなのである。
 

ただ、そうなると考えてしまうのは、そもそも国会なり国会議員どもに「品位」などあったのか? という点である。

 

本会議中に寝ているのとか、汚いヤジを飛ばして「国会の華だ」と自慢しているのとか、バッジつけたくらいですぐに勘違いして威張り始めるのとか様々いる。

 

あるいは大臣室で札束をもらって何も説明責任を果たさずにいるのとか、

 

 

統一教会とズブズブだった清和会とか、

 

 

その他の国会議員の皆さんにはいったいどんな品位があるというのか小一時間問い詰めたいほどである。

 

 

安倍晋三に至っては100回以上も国会答弁で嘘八百を並べて議会の品位を貶めておきながら、懲罰すら受けていないのが実態であろう。


 


だいたい、衆議院議長細田そのものが女性番記者に添い寝するようメールしたり、統一教会とズブズブだったりと品位やモラルの欠片もないわけで、それはもうプラカードの比ではないほど破廉恥である。

 

 

衆議院の品位を貶めることが問題であるというのなら、細田懲罰動議こそ提出しなければならないし、女性番記者へのセクハラ疑惑などもってのほかといって、与野党がみんなして怒り狂わないと可笑しいのである。

 

所属政党によって、あるいは立場によって「品位」に対するさじ加減が異なるというのはダブルスタンダード二重基準)以外のなにものでもない。
 

そして、そんな国会で次々と決まっていく法案の数々こそ、櫛渕が指摘するようにこの国の行く末を歪め、国民に福利を享受させるどころか逆を行くものであり、まるで闘っているような振りをして「野党」がガス抜き装置となり、永遠の野党ポジションで安泰をむさぼっていることについて、茶番を茶番と指摘して何がいけないのか? である。

 

白々しい嘘やずるい黙殺、そして茶番がまかり通る国会で、まさに櫛渕が演説で訴えたように「闘う野党」の台頭こそが喫緊の課題であろう。

 

翼賛化した体制のなかで、飼い慣らされヒモのようにぶら下がって野党ビジネスに勤しむというのではなく、そんな様について「茶番である」と気を吐き、正論をぶっ込んでいく政党が一つでもあることの方が健全のように思う。

細田博之の「セクハラ疑惑」「統一教会問題」