きなこのブログ

大失業時代が到来しています。大失業の恐ろしさを歴史から学ばなければならない。『大失業は戦争への道につながっている』

プリゴジンはプーチンの策略を知らなかったのか 2 ~「プリゴジンの乱」は欺瞞作戦だったのか~

米国の「専門家」がロシアで内戦勃発だと興奮した理由は何なのか?
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202306270000/

エフゲニー・プリゴジンは6月23日、ワーグナー・グループの部隊を率いてロストフ・オン・ドンへ入り、ロストフ・オン・ドンからモスクワへ向かうように命令したとされている。

あまり現実的でない話だが、ワシントンの「専門家」はウラジミル・プーチン政権の崩壊を妄想し、大騒ぎだったという。

 

元駐露大使のマイケル・マクフォール

 

 

あるいはネオコンアン・アップルバウムなどは特に興奮していたようである。




マクフォールは2012年1月に大使としてロシアに赴任したが、その年の3月には赴任先で大統領選挙が予定されていた。

 

結局、選挙ではプーチンが勝利しているが、マクフォールはプーチン派に接触、選挙工作を進めていた。

この当時のアメリカ大統領はバラク・オバマ

 

 

 

同政権にマクフォールは2009年から上級顧問として参加、中東から北アフリカにかけての地域で実行された体制転覆工作にも加わっている。

スタンフォード大学時代、1983年と85年にマクフォールはソ連の大学で短期間学び、91年にはローズ奨学生としてオックスフォード大学に留学している。

アップルバウムの夫はポーランドで国防大臣や外務大臣を務めたラデク・シコルスキー。

 

 

ロシアとドイツがバルト海に建設した2本のパイプライン「ノードストリーム」と「ノードストリーム2」が2022年9月に爆破された直後、「ありがとう、アメリカ」と書き込んだ人物だ。
 

 

 

1983年からシコルスキーはオックスフォード大学で学ぶが、その際に学生結社「ブリングドン・クラブ」へ入っている。

 

メンバーの多くはイートン校の出身、つまり富豪の子どもたちで、素行が悪いことで知られている。

 

シコルスキーと同じ1980年代のメンバーにはボリス・ジョンソン、デイビッド・キャメロン、ジョージ・オズボーントニー・ブレアといった後の政治家、そして金融界に君臨しているナット・ロスチャイルドも含まれている。

 

 

帝政ロシアの有力貴族で、ドイツとの戦争を推進し、グレゴリー・ラスプーチン暗殺に関わったフェリックス・ユスポフもクラブのメンバーだった。



アメリカの有力メディアも内戦と殺戮を期待していたようだが、4日の午後にはロシアにおけるワグナー・グループの行動を中止することでベラルーシアレクサンドル・ルカシェンコ大統領とプリゴジンが合意し、ロシア政府はワーグナー・グループの幹部に対する訴追を取り下げると発表した。

 

プリゴジンベラルーシ「追放」される。

マクフォールは23日、ウラジミル・プーチンがワグナー・グループを攻撃するように命じ、自分はモスクワから逃げ出したと主張、内戦になるとも語っていた。

 

勿論、そうした展開にはならなかった。

CNNやニューヨーク・タイムズ紙はアメリカと西側の情報機関が以前から「クーデター」の動きに気づいていたと伝えた。

 

三者として気づいていたと言うなら、ロシアの情報機関も気づいていたはずで、失敗すると考えていたはずだ。

そうすると、情報機関から情報を入手できそうな人びとが興奮していたのは不自然だ。

 

プリゴジンアメリカなどの情報機関と連絡を取り合い、その情報を聞いていた「専門家」が舞い上がったのかもしれない。

本ブログでも書いたが、ワグナー・グループの行動は「マスキロフカ」、つまり欺瞞作戦(ぎまんさくせん)だった可能性がある。

 

 

ワグナー・グループはロシアの情報機関によって創設され、ロシア軍参謀本部の第1副本部長を務めているウラジーミル・ステパノビッチ・アレクセーエフ中将がその背後にいたと言われ、しかも今年5月4日からミハイル・ミジンチェフ上級大将が副司令官を務めている。

 

ワグナー・グループの将校はひとりも「反乱」に加わっていないという。

 

料理人のプリゴジンが独断で部隊を動かしたというのは不自然である。

ひとつの可能性として、西側からプリゴジンに何らかのアプローチがあり、誘いに乗ったふりをしたということも考えられる。

 

ワグナー・グループを動かし、西側がロシア国内に作ったネットワークを動かして実態を調べようとしたのかもしれない。

真相は不明だが、ともかくジョー・バイデン大統領や彼の周辺にいる好戦派はウクライナで彼らが勝利するという妄想を抱き続けている。

 

 

ウクライナ軍が6月4日に「反転攻勢」を始めるとバイデン米大統領は祝福、デビッド・ペトレイアス元CIA長官はロシア軍が蹴散らされると語っていたようだ。

5日には攻勢が失敗に終わることが見えてくるが、6日にはノヴァ・カホウカ・ダムが爆破され、ヘルソンのロシアが支配している地域は洪水で水浸しになった。



ウクライナ軍の侵攻を防ぐために作られた地雷原は今回の洪水で押し流され、水が引いて土地が乾燥した後、攻め込むことが容易になると考える人がいる。

 

破壊されたダムはクリミアの水源であると同時に電力の供給源であり、ザポリージャ原子力発電所もダムの水力発電所から電力の供給を受けている。

ワシントン・ポスト紙は​昨年12月にウクライナ軍のアンドリー・コバルチュク少将をインタビュー、ドニエプル川を氾濫させるという構想を聞いている​。

https://www.washingtonpost.com/world/2022/12/29/ukraine-offensive-kharkiv-kherson-donetsk/

 

同少将はヘルソン地区におけるウクライナ軍を指揮している軍人だ。

 

その構想に基づき、昨年8月にウクライナ軍はHIMARSでノヴァ・カホウカ・ダムを攻撃、3カ所に穴を開けたとコバルチュク語っている。

 

 

テストは成功したものの、最後の手段として取っておくとしていた。

25カ国から最大1万人が参加、派遣される航空機は220機に達するという軍事演習「エア・ディフェンダー23」をNATO軍は6月12日から23日にかけて実施する予定だった。

 

これは演習を装った実戦ではないかと疑う人もいたが、米英の好戦派がそう考えたとしても、NATO内には同調しない国が少なくなかっただろう。
 

 

イギリスは20世紀初頭からドイツとロシア/ソ連を戦わせ、共倒れを狙ってきた  
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202306290000/

ワグナー・グループを率いるエフゲニー・プリゴジンが引き起こした「反乱」は短時間のうちに沈静化、アメリカではウラジミル・プーチン政権の崩壊を妄想して興奮していたロシア憎悪の政府高官や「専門家」は落胆することになった。

 

この「反乱」の真相は不明だが、プーチン大統領「内乱」を阻止することに全力を尽くしたという。

今回の「反乱」について語る際、プーチン大統領は1917年2月にペトログラード(現在のサンクトペテルブルグで起こったストライキから始まる内乱)を引き合いに出している。

この出来事は第1次世界大戦の最中に引き起こされた。

 

ヨーロッパでは1914年7月28日にオーストリア-ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告して大戦が勃発していたのだ。

その当時、帝政ロシアではドイツとの戦争に積極的な産業資本家消極的な大地主が対立している。

 

産業資本家側には有力貴族のフェリックス・ユスポフが、

 

 

また大地主側には修道士のグレゴリー・ラスプーチンがついていた。

 

 

ラスプーチンの背後には皇帝アレキサンドロビッチ・ニコライ2世と皇后アレクサンドラがついていた。

 

ドイツとロシアを戦わせようとしていたイギリスにとってラスプーチンは邪魔な存在だ。

戦争を望んでいなかった皇后は7月13日にラスプーチンへ電報を打って相談、ラスプーチン戦争が国の崩壊を招くと警告しているが、その内容を盗み見た治安当局は議会などにリーク、ラスプーチンは腹部を女性に刺されて入院することになった。

 

入院中にロシアは総動員を命令、ドイツは動員を解除するよう要求。

 

それをロシアが断ったため、ドイツは8月1日に宣戦布告している。

 

ラスプーチンが退院したのは8月17日のことだ。

すでにドイツと戦争を始めていたロシアだが、ラスプーチンが復帰したことでいつ戦争から離脱するかわからない状況。

 

それを懸念したイギリス外務省は1916年にサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣。

 

チームにはティーブン・アリーオズワルド・レイナーが含まれていた。

(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

アリーの父親はユスポフ家に雇われた家庭教師のひとりで、アリー自身はユスポフの宮殿で生まれている。

 

またレイナーはオックスフォード大学の学生だった時代からユスポフの親友で、流暢なロシア語を話した。(前掲書)

ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月後半から11月半ばにかけて6度運んだという。

 

ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(前掲書)

ラスプーチンは1916年12月30日に暗殺された。

 

殺したのはユスポフだと言われているが、暗殺に使用された455ウェブリー弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだったという。

ユスポフは上流社会の堕落に憤り、犯行に至ったとされているが、世界の上流社会は堕落している。

 

そのようなことで憤る人物が上流社会で生きることはできない。

 

このハリウッド映画風の説明に説得力はないのだ。

 

事実を直視すれば、ドイツとロシアの戦争をイギリスが継続させたかったのだという結論に達する。

 

ドイツとロシアの共倒れを狙っていたということだろう。



二月革命で成立した臨時革命政府は戦争を継続する。

 

そこでドイツは即時停戦を主張していたボルシェビキに目をつけたが、ボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか刑務所に入れられていた。

 

 

そこでドイツはボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運ぶ。

 

ウラジミル・レーニンは1917年4月に帰国、7月にボルシェビキ武装デモを行うものの、鎮圧されてしまう。

 

レーニンフィンランドへの亡命を余儀なくされた。

 

この時、臨時革命政府軍の最高総司令官になったのがラーブル・コルニーロフ将軍。

 

 

労働者や兵士を味方につける必要性を感じたのか、臨時政府は7月にエス・エルのアレキサンドル・ケレンスキーを首相に就任させた。



ところが、コルニーロフが8月にクーデターを企てる。

 

この武装蜂起にケレンスキー政府は対応できず、ボルシェビキに頼ることになった。

 

そして十月革命につながり、革命政権はドイツの思惑通りに即時停戦を宣言、無併合無賠償、民族自決、秘密外交の廃止も打ち出した。

 

 

レーニンの命令でボルシェビキ政権はドイツとの戦争を停止するものの、アメリカが参戦、兵員を送り込んだほか、イギリスやフランスに物資を供給してたこともあり、ドイツは戦争に負けた。

しかし、そうした経緯があるため、大戦後、ドイツとソ連の関係は良好だった。

 

 

両国の関係が悪化するのはドイツでナチスが実権を握ってからだ。

 

ナチスはイギリスやアメリカの金融資本から資金的な支援を受けていたことがわかっている。



帝政ロシアの崩壊はラスプーチン暗殺が山場であり、その背後にはイギリス政府が存在していたと言えるだろう。

 

その手先がユスポフだ。