きなこのブログ

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アメリカ軍事侵略の手先

ネオコンの世界制覇計画を引き継いだバイデンがアメリカを破綻させつつある  
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202401010000/

ジョー・バイデンアメリカ大統領に就任した直後、「ルビコン」を渡った。

 

ロシアと中国を力づくで倒し、アメリカが世界の覇者として君臨しようとしたのだが、その計画が破綻、アメリカを中心とする支配システムが崩れ始めている。

バイデンの周辺にいたのはネオコンと呼ばれるシオニストの一派で、その背後にはシティウォール街を拠点とする強大な金融資本、古典的な表現を使うならば帝国主義者が存在している。

ロシアや中国との戦いで簡単に勝てるとネオコンは信じていたようだが、そうした展開にはなっていない。

 

作戦は全て裏目に出て、アメリカは窮地に陥った。

 

ウクライナでロシアに敗北、ガザではパレスチナ人を「浄化」するどころか、手先のイスラエルは厳しい状況にある。

 

西太平洋で戦争を準備、日本と韓国を利用して中国やロシアを新たな戦争へ引き摺り込もうとしているが、東アジアを破壊するだけで終わるだろう。

 

 

ウクライナパレスチナでは計算が狂い、東アジアでもバイデン政権の思惑通りには進みそうもない。

 

 

しかし、「ルビコン」を渡ったバイデン政権は後戻りできない。

 

すでにバイデンを支えている勢力はアメリカ国内で強引なことを始めた。

 

国際問題でも形勢を逆転するため、2024年にはギャンブルに出る可能性がある。

ウクライナの内戦はバイデンが副大統領を務めていたバラク・オバマ政権が始めた。

 

ビクトル・ヤヌコビッチ政権を倒すため、2013年11月から翌年2月にかけてクーデターを仕掛けたのだ。

 

その工作を現地で指揮していたのが国務次官補だったビクトリア・ヌランドホワイトハウスで担当していたのがバイデン

 

当時、バイデン副大統領の国家安全保障担当補佐官を務めていた人物がジェイク・サリバン、現在の国家安全保障補佐官だ。

ヤヌコビッチ政権の打倒を目指すクーデターが始まるのは2013年11月のこと。

 

首都キエフのユーロマイダン(ユーロ広場、元の独立広場)でカーニバル的な集会が始められ、12月になると集会への参加者は50万人に達したと言われている。

年明け後、前面に出てきたネオ・ナチはチェーン、ナイフ、棍棒を手にしながら石や火炎瓶を投げ、ブルドーザーを持ち出す。

 

さらにスナイパーを使って広場にいた警官や住民を射殺するのだが、西側の有力メディアはその責任をヤヌコビッチ政権になすりつけた。

そうした展開の中、EUは混乱を話し合いで解決しようとしたようだが、これに怒ったアメリカのビクトリア・ヌランド国務次官補はウクライナ駐在アメリカ大使のジェオフリー・パイアットに対し、電話でEUなんかくそくらえ」と口にしている。

 

 

アメリカは暴力によって2014年2月22日にヤヌコビッチ政権を倒した。

こうした強引な方法でロシアとの戦争をネオコンは始めたのだが、その背景には、ソ連の消滅でアメリカが「唯一の超大国」になったという思い込みがあった。

 

そうした西側支配層の雰囲気を示す論文がある。

 

米英支配層と深い関係にある外交問題評議会(CFR)が発行している定期刊行物​「フォーリン・アフェアーズ」の2006年3/4月号に掲載されたキール・リーバーとダリル・プレスの論文​では、ロシアと中国の長距離核兵器アメリカ軍の先制第1撃で破壊できるようになる日は近いとされている。

 

 

簡単にロシアや中国に勝てるということだ。

実は、この分析が間違っていることは2008年8月に判明している。

 

イスラエルアメリカを後ろ盾とするジョージアが北京で夏季オリンピックが開かれていた期間を狙い、南オセチアを奇襲攻撃したのだが、完膚なきまで叩きのめされた。

イスラエルは2001年からジョージアに武器/兵器を含む軍事物資を提供、将兵を訓練しはじめている。

 

イスラエルから供給された装備には無人飛行機、暗視装置、防空システム、砲弾、ロケット、電子システムなども含まれていた。

 

 

当時のジョージア政府にはヘブライ語を流暢に話す閣僚がふたりいたことも知られている。

 

ひとりは奇襲攻撃の責任者とも言える国防大臣のダビト・ケゼラシビリであり、

 

 

もうひとりは南オセチア問題で交渉を担当しているテムル・ヤコバシビリだ。

そのほか、アメリカの傭兵会社MPRIとアメリカン・システムズが元特殊部隊員を2008年1月から4月にかけてジョージアへ派遣して軍事訓練を実施、同年7月にはコンドリーサ・ライス国務長官ジョージアを訪問している。

 

 

南オセチアへの奇襲攻撃はその翌月だ。

 

アメリカ政府の承認を受けての奇襲攻撃だったのだろう。

アメリカはアル・カイダ武装集団を使い、2011年春にリビアやシリアへ軍事侵攻、13年11月から14年2月にかけてウクライナではクーデターを実行、ビクトル・ヤヌコビッチ政権を倒した。

 

このクーデターでアメリカ政府はネオ・ナチを使っている。

ヤヌコビッチの支持基盤だった東部と南部の住民はクーデターを拒否し、南部のクリミアはロシアの保護下に入り、東部のドンバスでは内戦が始まった。

 

オデッサではクーデターに反対していた住民をネオ・ナチの集団が虐殺している。

内戦ではドンバス軍が優勢で、アメリカ/NATOキエフ体制の軍事力を強化する時間が必要だった。

 

そこで結ばれたのがミンスク合意

 

ドイツやフランスが仲介したのだが、​アンゲラ・メルケル元独首相​は昨年12月7日にツァイトのインタビューでミンスク合意は軍事力を強化するための時間稼ぎだったと認め、

 

 

その直後に​フランソワ・オランド元仏大統領​はメルケルの発言を事実だと語っている。

 

 

その後、8年をかけてアメリカ/NATOはクーデター政権に兵器を供給、兵士を訓練、ドンバスの周辺に要塞線を築いた。

 

アゾフ特殊作戦分遣隊(アゾフ大隊)が拠点にしていたマリウポリや岩塩の採掘場があるソレダルの要塞は特に有名だ。

 

ここにはソ連時代、核戦争に備えて地下施設が建設されていたという。

アメリカ/NATOの支援を受けたウクライナ軍は昨年2月、ドンバスに対する軍事侵攻に備えて部隊をドンバス周辺に集結させていた。

 

その部隊が動く直前にロシア軍は集結していたウクライナ軍や軍事施設、そして生物兵器の研究開発施設を攻撃、破壊した。

その段階でウクライナ軍の敗北は決定的だったのだが、すでにルビコンを渡っていたジョー・バイデン政権ウクライナで勝たなければならない。

 

そこでウクライナ政府にロシア政府と停戦交渉をするなと命令して戦闘を継続させたが、欧米、特にEUが置かれた状況は厳しくなっている。

こうした状況を作り出したオバマバイデン民主党だが、共和党ジョージ・W・ブッシュ政権も世界制覇を目指していたという点は同じであり、政権を支えていたのはネオコンだった。

ブッシュ政権におけるネオコンの中心人物は副大統領だったリチャード・チェイニー

 

この人物は「1パーセントでも攻撃される危険性があれば、先制攻撃で相手をたたいてしまえ」と主張していた。

軍事侵略で世界を制圧するというのだが、この計画を始動させる出来事が2001年9月11日に引き起こされている。

 

ニューヨークの世界貿易センターバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されたのだ。

 

 

この攻撃についてブッシュ大統領は詳しい調査をせず、「アル・カイダ」が実行したと断定、その「アル・カイダ」を指揮しているオサマ・ビン・ラディンを匿っているという口実でアフガニスタンへの攻撃を始めた。

 

タリバーンオサマ・ビン・ラディンが攻撃を命令した証拠があれば引き渡すとアメリカ政府に伝えたが、いまだに証拠は示されていない。

しかも、攻撃の直後、アメリカのネットワーク局CBSは、ビン・ラディン世界貿易センターペンタゴンに対するテロを実行していないと主張していると伝えた。

そもそも「アル・カイダ」なる組織は存在しない。​

 

イギリスの外務大臣を1997年5月から2001年6月まで務めたロビン・クックが2005年7月に明かしたように、アル・カイダ」はCIAの訓練を受けた「ムジャヒディン」の登録リストだ​。

 

 

アラビア語アル・カイダはベースを意味、データベースの訳語としても使われる。

オサマ・ビン・ラディンサウジアラビアの建設会社を経営する富豪一族に属し、サウジアラビア王室ともつながりが深く、同国の情報機関を動かしていたトゥルキ・ビン・ファイサル・アル・サウド王子の下で活動していた。

サウジアラビアの情報機関はジミー・カーター政権で国家安全保障問題担当の大統領補佐官を務めていたズビグネフ・ブレジンスキーが始めたアフガニスタンにおける秘密工作に協力していた。

 

イスラム同胞団やワッハーブ派の人間を戦闘員としてアフガニスタンサウジアラビアが送り込み、CIAが軍事訓練していたのだ。

 

アフガニスタンを不安定化させ、ソ連軍の介入を誘発してソ連本体を疲弊させようというプランだった。

 

この当時、ブレジンスキーが作り上げた武装集団の戦闘員を「自由の戦士」と西側の有力メディアは呼んでいた。

戦闘員をアフガニスタンへ送り込む仕事をしていたひとりがオサマ・ビン・ラディンにほかならないのだが、この人物をジハード(聖戦)の世界へ引き込んだのはムスリム同胞団のアブドゥラ・アッザムだと言われている。

 

1984年にアッザムビン・ラディンパキスタンにMAK(マクタブ・アル・ヒダマト/礼拝事務局)のオフィスを開設した。

 

このMAKがアル・カイダの源流だと言われている。

1989年2月にソ連軍がアフガニスタンから撤退、91年にはオサマ・ビン・ラディンアフガニスタンを離れ、サウジアラビアパキスタンを経由してスーダンに入った。

 

その際、ビン・ラディンエスコートしたアリ・アブドゥル・サウド・モハメドアメリカの特殊部隊と関係が深い。

(Peter Dale Scott, “The American Deep State,” Rowman & Littlefield, 2015)

1992年12月にイエメンの首都でホテルが爆破され、2名が死亡しているが、その現場を調査したアメリ国務省の外交治安局のスペシャル・エージェントだったスコット・スチュワートによると、CIAの訓練を受けた何者かによって実行されていたという。(Max Blumenthal, “The Management Of Savagery,” Verso, 2019)

ビン・ラディンは1993年から94年にかけての時期、サラエボで目撃されている。

 

当時、アメリカを含むNATO加盟国の情報機関はジハード傭兵をボスニア・ヘルツェゴビナへ送り込んでいた。

 

セルビアと戦わせることが目的だ。

 

つまり、オサマ・ビン・ラディンウクライナのネオ・ナチと同じように、アメリカによる軍事侵略の手先だった。

 

2024年を前にして、この構図が崩れ始めている。