コソボを併合して大アルバニアを実現しようとする動きにも米国の世界制覇戦略
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アルバニアのエディ・ラマ首相が2月21日に来日、翌22日には岸田文雄首相と総理大臣官邸で会談、「ロシアのウクライナ侵略」を強く非難することで一致したというが、アルバニアはコソボを併合して「大アルバニア」を実現しようと目論んでいる。
その構想をアメリカは支援しているが、その理由は大アルバニアをアメリカの軍事拠点にすることにあると見られている。
現在、セルビアのアレクサンドル・ブチッチ大統領はコソボの独立を認めるようにアメリカから強い圧力を受けているのだが、昨年5月に議会で「コソボとメトヒヤを含むセルビアの主権と領土全体をその不可欠な部分として維持する」と誓っているが、フランスとドイツが作成したコソボ独立の計画が今年1月20日に公開された。
キエフのクーデター体制の軍事力を増強する時間稼ぎをするためにロシアと「ミンスク合意」を結んでみせたコンビだ。
言うまでもなく、セルビアはユーゴスラビアの一部だった。
そのユーゴスラビアを解体する工作をアメリカが始めたのは1984年のことだ。
当時のアメリカ大統領、ロナルド・レーガンは「NSDD133(ユーゴスラビアに対する米国の政策)」に署名したのである。
この地域にはカトリック、ギリシャ正教、イスラムなどの宗教を信じる人びとが生活していたが、内戦が行われるようなことはなかった。
すでにポーランドではレーガン大統領とローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が手を組み、秘密工作を始めている。
その一端はバチカン銀行の不正融資という形で発覚していた。
ソ連が自壊し始めた1991年にはユーゴスラビアも壊れ始める。
その年の6月にスロベニアとクロアチアが独立を宣言、9月にはマケドニア、翌年の3月にはボスニア・ヘルツェゴビナが続いた。
4月になるとセルビア・モンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国を結成、社会主義連邦人民共和国は解体される。
そしてコソボではアルバニア系住民が連邦共和国から分離してアルバニアと合体しようと計画、それをNATOが支援しはじめた。
この間、西側の有力メディアはセルビア人による「人権侵害」を口実にしてユーゴスラビアを攻撃するよう求めているが、後にこの人権侵害話は嘘だったことが明らかになっている。
当初、コソボの分離独立運動を主導していた組織はイブラヒム・ルゴバの率いるLDK(コソボ民主化連盟)。
この組織は非暴力で、セルビア側も事態の悪化を懸念して運動を許していた。
ソ連消滅後の1992年2月にはフランスのランブイエで和平交渉が始まり、セルビア側はコソボの自治権を認め、弾圧もやめることで合意、交渉はまとまりかけるのだが、それをNATOは嫌う。
そこでNATOはセルビア側が受け入れられない条件、つまり車両、艦船、航空機、そして装備を伴ってNATOの人間がセルビアを自由に移動できるという項目が付け加えたのだ。
(David N. Gibbs, “First Do No Harm”, Vanderbilt University Press, 2009)
これについて日本の外務省は「セルビアがNATO軍のコソボ展開を受け入れず決裂」したと説明している。
1992年3月にはユーゴスラビア駐在アメリカ大使だったウォーレン・ジンマーマンはサラエボでボスニアのイスラム指導者だったアリヤ・イザドベゴビッチと会談したが、この人物は第2次世界大戦中、「青年ムスリム」に参加していた。
この組織はナチスと行動を共にし、セルビア人やユダヤ人の虐殺に加担したと言われている。
(F. William Engdahl, “Whom The Gods Would Destroy,” mine,Books, 2016)
この当時、西側の有力メディアは軍事介入を煽る「報道」を続けていた。
例えば、1992年8月にボスニアで16歳の女性3人がセルビア兵にレイプされたとニューズデーのロイ・ガットマンは報道しているが、別のジャーナリスト、アレクサンドラ・スティグルマイアーやマーティン・レットマイアーらの取材によってガットマンの話が嘘だということが判明している。
当時、ガットマンはドイツのボンで支局長を務めていた人物で、自分で取材したわけではない。
ヤドランカ・シゲリなる人物から得た情報をそのまま書いたのだが、このシゲリはクロアチアの与党で民族主義の政党、HDZ(クロアチア民主団)の副党首を務め、クロアチアの亡命者が創設したプロパガンダ組織CIC(クロアチア情報センター)のザグレブ事務所の責任者でもあった。
1996年にはジョージ・ソロスの人権擁護団体HRWがシゲリを主役にしたドキュメント映画を発表、ガットマンは1993年にピューリッツァー賞を贈られている。
ボスニアでの状況について、ICRC(赤十字国際委員会)は全ての勢力が「不適切な行為」を行ったとしている。
セルビア人による組織的なレイプが行われた証拠はない。
(Diana Johnstone, "Fools' Crusade," Monthly Review Press, 2002)
アメリカなどNATO加盟国の情報機関はジハード傭兵をボスニア・ヘルツェゴビナへ送り込み、破壊と殺戮を拡大していた。
戦闘員が運ばれた主なルートはクロアチア経由だったとされている。
ジハード傭兵の仕組みは1970年代にズビグネフ・ブレジンスキーが作った。
サラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団を中心に戦闘員を集めてCIAが訓練、訓練を受けた戦闘員をデータ・ベースに記録するというものだ。
1997年5月から2001年6月までイギリスの外務大臣を務めたロビン・クックが2005年7月にガーディアン紙で説明したように、このデータ・ベースが「アル・カイダ」にほかならない。
アラビア語でアル・カイダはベースを意味、データベースの訳語としても使われる。
戦闘員の募集活動をしていたのがオサマ・ビン・ラディンだ。
なお、クックは2005年8月6日に休暇先のスコットランドで散歩中に心臓発作で急死した。
ジャーナリストのレナテ・フロットーによると、サラエボにあるイザドベゴビッチのオフィスで1993年から94年にかけてオサマ・ビン・ラディンを何度か見かけたという。
(F. William Engdahl, “Manifest Destiny,” mine.Books, 2018)
ビン・ラディンはセルビアに対する戦闘の準備を進め、その一環として1994年7月にロンドンでARC(助言改革委員会)を設立する。
ビン・ラディンは1996年にスーダンを追放されてアフガニスタンへ移動、そこから98年までの期間にロンドンの仲間へ電話連絡している。
その回数は238回に達するという。
(T. J. Coles, “Manufacturing Terrorism,” Clairview, 2018)
ビル・クリントン政権は1995年11月に関係勢力の代表をアメリカのオハイオ州デイトン近くにあるライト・パターソン空軍基地へ集めて合意を成立させた。
アメリカはコソボを分離させ、そこへアメリカ軍の基地を建設して居座ることを考えていたと言われている。
この頃、アメリカ政府はセルビアと協調していたLDKを排除し、麻薬業者のKLA(コソボ解放軍、UCKとも表記)に置き換える。
KLAの活動は1996年2月にコソボ北部にいたセルビア人難民を襲撃することからスタートした。
(Gregory Elich, 'The CIA's Covert War,'CovertAction Quarterly, April-June 2001)
クリントン政権は1997年1月に国務長官をクリストファー・ウォーレンから反ロシア感情の強い好戦派で、ブレジンスキーの教え子でもあるマデリーン・オルブライトへ交代させる。
オルブライトは1998年秋にユーゴスラビア空爆を支持すると表明した。
この空爆の地ならしとして有力メディアはセルビア人を悪魔化する偽情報を流す。
そうした偽情報を流したひとりがウィリアム・ウォーカーなる人物。
コソボにあるユーゴスラビアの警察署で45名が虐殺されたと主張したのだが、警察側とKLAとの戦闘で死亡したのだ。
その様子をAPのテレビ・クルーが撮影していたことから嘘はすぐに露見した。
このウォーカーは1988年から92年までエル・サルバドル駐在の大使を務めていた。
1989年にエル・サルバドル軍の部隊がカトリックの指導的立場にあった司祭6名とハウスキーパーやその娘を殺害した際、事件に関する調査を彼は妨害している。
ユーゴスラビアのスロボダン・ミロシェビッチ大統領は1998年10月の終わりにコソボからの撤退計画を発表するが、KLAは和平を受け入れない。
軍事的な緊張を高めてNATO軍を戦争へ引き入れるため、KLAはセルビアに対して挑発的な行動に出た。
これはアメリカ側の意向を受けたものだ。
決して親セルビアとは言えないヘンリー・キッシンジャーでさえ、1998年10月から99年2月までの期間で、停戦違反の80%はKLAによるものだと語っている。
(David N. Gibbs, “First Do No Harm”, Vanderbilt University Press, 2009)
そして1999年3月から6月にかけてNATO軍はユーゴスラビアへの空爆を実施、4月にはスロボダン・ミロシェビッチの自宅が、また5月には中国大使館も爆撃されている。
勿論、この攻撃で多くの市民が殺され、建造物が破壊された。
この空爆の司令部はアメリカ大使館にあったと考えられている。
その中心にいたのはアメリカ外交団のトップだったリチャード・マイルズ。
体制転覆の専門家と言われている。
6月3日にロシアのボリス・エリツィン政権はセルビアのスロボダン・ミロセビッチ大統領に対して降伏するように勧告、コソボをめぐる戦争は終了するが、セルビアもロシアもコソボの独立を認めていない。
米国政府は侵略の手先としてウクライナではネオナチ、コソボでは麻薬業者を使う
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ウクライナではウォロディミル・ゼレンスキー大統領が追い詰められている。
ロシアの傭兵部隊、ワーグナー・グループはソレダルを陥落させた後、バフムート(アルチョモフスク)を攻撃、包囲したようだ。
ウクライナ軍は橋を破壊して抵抗を試みているが、戦闘を続ければ戦死者が増えるだけだろう。
動員して集めた兵士の大半はまだ訓練中のロシア軍だが、その状態でもウクライナ軍は厳しい状況にあり、政府は分裂状態のようだ。
そうした中、アメリカのジョー・バイデン政権はセルビアのアレクサンドル・ブチッチ大統領に対し、コソボの独立を認めるように圧力をかけている。
アメリカ政府はウクライナのクーデターでネオ・ナチを使ったが、コソボでは麻薬業者を使った。
その麻薬業者が中心になって組織したのがKLA(コソボ解放軍、UCKとも表記)にほかならない。
このグループにはクロアチアのネオ・ナチも入り込んでいた。
KLAを率いてたひとりで、後に首相となるハシム・サチはアルバニアの犯罪組織とつながり、麻薬取引や臓器の密売に関与していたと言われている。
アングロ・サクソンの支配層はアヘン戦争だけでなく、ベトナム戦争でCIAは東南アジアの山岳地帯、通称「黄金の三角地帯」でケシを栽培してヘロインを製造して儲け、1970年代にアフガニスタンで秘密工作を始めた後にはアフタニスタンへケシの栽培地を移動させた。
ニカラグアでの秘密工作を始めるとCIAはコカインの生産を始める。
アフガニスタンで生産されたヘロインの主要な輸送ルートはコソボを通過、それにともなう儲けがKLAの資金源になった。
麻薬資金を処理するためにベトナム戦争の際にはオーストラリアのナガン・ハンド銀行が使われている。
ロッキード事件でも名前が出てくる香港のディーク社も闇の資金を扱っていた。
こうした金融機関は全て「CIAの銀行」だ。
UNODC(国連薬物犯罪事務所)のアントニオ・マリア・コスタはイギリスのオブザーバー紙に対し、麻薬資金と銀行との関係について語っている。
彼によると、2008年に世界の金融システムが揺らいだ際、麻薬取引で稼いだ3520億ドルの大半が経済システムの中に吸い込まれ、いくつかの銀行を倒産から救った疑いがあるというのだ。
(The Observer, December 13, 2009 )
麻薬資金は流動性が高く、銀行間ローンで利用された可能性がある。
(The Observer, April 3, 2011)
麻薬取引による利益は年間6000億ドル、金融機関でロンダリングされている資金の総額は1兆5000億ドルに達する(UNODC, “Annual Report 2010”)、あるいは麻薬の年間売上高は8000億ドル以上という推計もある(EIR, “Dope, Inc”, Progressive Press, 2010)。
また銀行が行っている違法資金のマネーロンダリングは1年で5000億ドルから1兆ドルに達するという話が1999年にアメリカ上院で出ている。
(Minority Staff Report For Permanent Subcommittee On Investigations (Senate Committee On Homeland Security & Governmental Affairs) Hearing On Private Banking And Money Laundering, November 9, 1999)
アメリカを後ろ盾としてコソボの独立を宣言したサチたちは麻薬だけでなく臓器の密売も行っていたと報告されている。
旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で検察官を務めたカーラ・デル・ポンテは自著(Chuck Sudetic, Carla Del Ponte, “La caccia: Io e i criminali di guerra,” Feltrinelli, 2008)の中でKLAによる臓器の密売に触れている。
コソボで戦闘が続いている当時、KLAの指導者らが約300名のセルビア人捕虜から「新鮮」な状態で、つまり生きた人間から臓器を摘出し、売っていたというのだ。
この話は欧州評議会のPACE(議員会議)に所属していたスイスの調査官ディック・マーティの報告書にも書かれている。
KLAの幹部はセルビア人を誘拐し、彼らの臓器を闇市場で売っていたという。
捕虜の腎臓を摘出し、アルバニア経由で臓器移植のネットワークで売り捌いていたともされている。
こうした行為を隠しきれなくなったのか、サチたちは2020年4月、ハーグの特別法廷に起訴された。
勿論、これで問題が解決されたわけではない。
黒幕は今でも大手を振って歩いている。