・対テロ戦争で世界分断 「どっちの味方だ?」
2001年、ついにニューヨークで9・11同時多発テロが発生する。
当時のブッシュ大統領は、これを「第二のパールハーバー(真珠湾攻撃)」と呼んだ。
アメリカが初めて本土攻撃を受けたわけだ。
日本のリベラルよりも強烈な信念を持つアメリカのリベラルたちも愛国主義に舞い上がり、国家全体が大政翼賛化する。
愛国法を作り、ムスリムを敵視し、いわゆる「テロとの戦い」が始まる。
わずか20年前のことだ。
攻撃を受けたアメリカはすぐさま、アルカイダを匿うタリバン政権に対して報復攻撃を開始する。
個別的自衛権の行使だ。
日本では、集団的自衛権だけが問題になるが、集団的自衛権の場合はまだ一緒に攻撃する相手との相談がある。
個別的自衛権は自分の考えひとつでやるので、実は一番危ういのだ。
アメリカは、保守もリベラルもひっくるめて国家全体がテロのショックで舞い上がり、アフガンに雨のように爆弾を降らせた。
ロシアの空爆の比ではない。
何千人殺されたのかもわからない。
明らかな戦争犯罪だ。
膨大な無辜のアフガン人の命が奪われたが、これもウクライナのように報じられることはなかった。
テロから4カ月後の2002年1月、ブッシュ大統領が一般教書演説で世界に向かって高らかに問いかけたのは、「Which side you are?(どっちの味方だ?)」だ。
アメリカの側に付くか否か――
つまり「テロリストの側か、テロリスト撲滅を目指すわれわれの側か。態度を明確にしろ」と各国に迫った。
ご承知の通り日本は真っ先に手を挙げ、だからこそ代表として僕がアフガンに送られたわけだ。
このときアフガンでは、アメリカは空から爆弾を落とすだけの卑怯な戦いをやり、かつてソ連軍と戦った現地の軍閥たちにタリバンとの地上戦を戦わせた。
そもそも軍閥たちが内戦をしたおかげで国が荒廃し、タリバン政権が生まれたのだが、タリバンに恨みを持っている彼らは、アメリカの支援を受けて、また一致団結してタリバンと戦い、一度だけ勝利する。
だが、その直後から彼らはまた内戦を始め、同じ失敗をくり返すことに慌てたアメリカは、日本を含めた国際社会の力でなんとか彼ら軍閥を説得し、彼らを入れて新政権を作るという壮大な実験を始めた。
それに付き合わされたのが僕だ。
彼らを説得し、戦車やスカッドミサイルなどの保有兵器を回収し、それを新しく作る政権に移譲させる。
そのかわりに彼らを政治家として登用する。
彼らはタリバンよりも民間人を殺す戦争犯罪者であり、病的な連続殺人犯的なものさえいる。
これらを政治家にし、武器ではなく民主主義の中で争うことを根付かせるという壮大な実験だ。
これが西側の「民主主義」だ。
僕は武器を持たずに軍閥たちを説得し、すべての武器を回収した。
アフガン人は総じて「日本人は勇敢でありながら平和を尊ぶ民族だ。日本人がいうことなら信じよう」ということで説得に応じ、武装解除は成功した。
とはいえ相手は戦争犯罪者だ。
戦争犯罪者と交渉しなければならない僕の立場を想像できるだろうか?
「人権侵害の“不処罰の文化”をおし進める悪魔の手先」という誹りを、アフガン国内外の人権団体から受けながら、そういう「汚い仕事」を僕はやってきた。
平和のために。
一人でも多く犠牲を減らすために。
当初、アフガンの新しい国家建設は前に進むかに見えた。
まず統治の象徴として、特定の部族ではなく国を守る使命を持った透明性のある国軍創設を目指した。
だが、勝利はアメリカ政府の政治的な思い込みに過ぎず、ここからタリバンは力を盛り返し、ブッシュは投げ出す形で退任。
オバマ政権になるとどんどん深みにはまっていく。
このころから「この戦争にはもう軍事的な勝利はない」といわれ始めた。
それでもアメリカは負けるわけにはいかない。
だが、この時点でアフガン戦争はアメリカ建国史上最長の戦争になっていた。
こんな戦争をアメリカ人は歴史上かつて戦ったことがないのだ。
僕は自衛隊の統合幕僚学校でも教えているが、日本の軍事専門家やOBも含めて、親米国であることを誇る人たちは、このような認識を驚くほど持っていない。
アメリカはこれに決着を付けるためにものすごく苦しむ。
軍事的勝利ができないのなら、別の「勝利」でなんとか抜け出せないか――それを探る出口戦略が始まる。
選挙を平和裏にやって「民主主義の勝利」として決着を付けようにも、もはや人々は危険を冒してまで選挙に行ってくれない。
その課題はトランプ政権にも引き継がれたが、撤退したくても無責任に撤退すればアルカイダを生むようなテロの温床になりかねない。
それにもっとも無責任な形で決着を付けたのが、バイデン政権だ。
去年4月、「9・11テロから20年」のウケを狙うように、9月11日までに全面撤退するという声明を突然発表した。
しかもタリバンから何一つコミットメントを確認しない無条件撤退だ。
当時、僕と一緒にNATOで働いていた米軍将校たちから、「信じられない。無条件撤退とはどういうことだ…」と困惑のメールが届いた。
アメリカが出口戦略を探し始めたのは2010年ごろだが、それ以上に疲れ切っていたのが、この戦争に付き合わされてきたNATO諸国だった。
冷戦後に存在意義を見失い、「対テロ」で結束して史上初めて戦ったアフガンで大混乱し、自己喪失に陥っていたところに、2014年、胸をなで下ろす事態が生まれた。
ロシアのクリミア併合だ。
これに対応することでNATOは新たな存在意義を見出せる――そんなメールも当時、NATOの将校から送られてきた。
・無責任なアフガン撤退 現地協力者見捨てた日本
バイデンによる突然の撤退宣言後、アフガンで何が起きたか。
歴史的に戦乱が常態化するアフガンでは、各村々が自警のために武装する文化が根付いている。
大小無数に存在する各地の武装勢力は、アメリカが創設した新しい国軍に帰依するか、タリバンに帰依するかの選択を迫られる。
米国大統領の無責任な撤退表明によって、その力関係はオセロゲームのようにバタバタとひっくり返り、誰も予測していなかったスピードでタリバンが勝利した。
8月15日、首都カブールは1日にして陥落する。
その2週間後の8月30日、最後の米軍輸送機がアフガンを飛び立った。
米軍もNATO軍も完全に姿を消し、アフガンは一瞬平和になる。
ベトナム戦争の再来であり、世紀の大失態だ。
初めてアメリカとNATOが結束して20年も戦ったあげく、すべてを放り出して敗走したのだ。
だが一方で、着々とウクライナ情勢が悪化していく。
崩壊しかけたNATOの存在意義は、そちらに向いていくことになる。
ついでに触れておきたいことは、日本もこのアフガン戦争の参戦国であるということだ。
自衛隊がインド洋でやった海上給油活動は、NATOの下部作戦だ。
当時の小泉首相がブッシュの前でプレスリーの真似をして、参加を決めてきてしまった。
海上自衛隊の護衛艦まで付けて出した日本は、戦史上立派な参戦国だ。
だがアフガン戦争に参加した国は、アメリカと一緒に全員逃げた。
この大混乱のなかで西側諸国は、同国人や大使館員だけでなく、アフガン人職員、通訳、西側に留学して民主主義を学び、自国で働いていたNGO職員たちがタリバンから狙われないように、同国人と差別せずに家族まで含めて一緒に輸送機に乗せた。
それでも多くを積み残したため、「命のビザ」を発給し、自力で脱出すれば移民として受け入れる用意までして助けようとした。
このときアフガン人協力者を見捨てて、自分たちだけ真っ先に逃げた国が一つだけある。
日本だ。
このときほど日本人であることを恥じたことはない。
それまでは「自衛隊を一歩も出すな」と主張してきた僕は、すぐに自衛隊機の派遣を指示し、輸送機2機がアフガンに送られたが、初動が遅れたので誰も救い出すことができなかった。
どれだけ苦悩したかを考えてほしい。
つまり法整備が進んでおらず、自衛隊法しかない。
もし自衛隊が海外で戦争犯罪を起こしても、日本の法体系には戦争犯罪という概念がなく、裁く法がない。
それだけでなく、日本人が公務で外国にいったときに犯した犯罪は、レイプや詐欺、殺人は東京地検が管轄するが、業務上過失は管轄外だ。
これを「法の空白」という。
海外に送られた自衛隊が、そこで人を殺してしまったら業務上過失致死になるが、それを裁く法律がない。
問いたいことは、自国の戦力が起こす事故を裁く法を持たないのにもかかわらず、なぜ自衛隊が送れるのか? ということだ。
だから僕は、どんな形であれ自衛隊派遣は絶対にダメだと強硬に反対してきた。
その僕も、昨年8月15日、日本だけがまさかというほどの無責任な敗走をしたため、自衛隊機派遣を求めざるを得なかった。
考えてもらいたいのは、この時のカブールは、軍が敗走する第一級の戦闘地域だ。
憲法九条にどんな抑止力があっただろうか。
僕は派遣を要請した側だが、野党にはこのときの自衛隊派遣にどんな法的根拠があるのかを国会で追及してほしかった。
だが、いまだにやらない。
みずからを裁けない戦力が外で活動する――これは非常に恐ろしいことだ。
こんな超法規的な違憲行為が実行されてしまうのに、これを誰も問題とも思わない。
同じ難民でもアフガン人については関心がなく、ウクライナ人だけは優遇する。
これが日本の実態だ。