きなこのブログ

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次の日本の指導者になるべき本物の政治家

[3548]この「どうかしている泉(いずみ)」という人が、次の日本の指導者になるべきだ。
http://www.snsi.jp/bbs/page/1/

ウクライナ戦争で、東部ドネツク州の、大激戦地のバフムートが、まだ陥落しない。

 

民間軍事会社(PMC、パラミリタリーの非正規軍、私兵の集団)のワグネルの指導者のエヴゲーニー・プリゴージンが、「ロシア軍から、砲弾が届かない。さっさと送れー」と、怒鳴り声をあげていた(5月5日)。


このことは、バフムートが陥落した時点(あと、たったの1.5キロ四方。2.4平方キロメートルの面積だ) で、ここに、集めた記事を貼り付ける。

今日、私が書くのは、「どうかしている泉(いずみ)」と、この30年間、地元で呼ばれ続けた兵庫県 明石市(人口30万人ぐらい)の “名物市長” を3期、12年間やって、先月、引退した、泉房穂(いずみふさほ)(今、60歳) という 素晴らしい政治家のことです。

 

 

私は、以下に載せるインタヴュー記事から分かる通り、この泉房穂が、おそらく、小沢一郎(もう83歳)のあとを継ぐべき、日本の真実の改革勢力の次の代表となるべき人物だと思う。 

 

私は、この泉氏に、これまで会ったことがないし、つい最近まで何も知らなかった。

 

「こんなすばらしい政治家(国民指導者)が、日本で育っていたとは」と、ひとりで驚いている。 

 


この下の方に記事を載せる。

 

この名物市長の引退と共に、自分のことをずっと描いた、朝日新聞の政治部あがりの記者が泉にインタヴューして書いた『政治はケンカだ!・・・』という本(ふたりの共著としてある)の出版の宣伝を兼ねての記事だ。

この元朝日新聞記者の鮫島浩(さめじまひろし、52歳)氏は、気合の入ったジャーナリストで、朝日をやめる(2021年)前から、泉房穂明石市長に取材している。

 

 

鮫島氏は、朝日新聞政治部の中でひどいイジメにあったようだ。

 

福島原発の報道で、2012年に記者協会の賞を貰っていたのに、朝日が、安倍晋三政権(2012年12月)に出来て、それいらい、朝日は安倍長期政権(7年間。統一教会が乗っ取った、日本の政権)に狙われた。

そのせいで、朝日新聞の報道姿勢は、どんどんおかしくなって、旧来の、日本の反(はん)自民党の、護憲(ごけん)勢力としての地位を、完全に、崩された。

 

今の、朝日は、もう、日本のリベラル派の代表としての面影も、残さないぐらいに、身を滅ぼして、悲惨な保守反動メディアに、変質し尽くした。

 

併せて、朝日内で、船橋せいいち という、幹部記者が、アメリカの手先に成りきって、こいつの活動と暗躍が、朝日を内部からおかしくした。 

 

鮫島浩は、それらと、朝日内部で、彼らと闘ってきたのだ。

 

彼の、『朝日新聞 政治部』(講談社、2022年刊)、すべてが書かれている。

(転載貼り付け始め)

〇 「明石の名物市長・泉房穂のヤバい東大生時代…「お前ら、中途半端な爆弾撃ってくんな」革マル派中核派とケンカしていたあの頃」

 



自民党総理候補に泉房穂が圧勝!

 

(2023年)4月23日に投開票された統一地方選

兵庫県明石市でこんな大事件が起きた。

自民党は立憲民主に圧勝したと吹聴するが、明石市では泉房穂(いずみふさほ)氏が立ち上げた地域政党明石市民の会」に完全に敗北した。

 

 

明石市泉房穂氏が3期12年にわたって市長を務めてきた。

 

全国に先駆けて「異次元の子ども施策」を実行し、市の出生数のみならず人口、税収も飛躍的に伸ばして「明石モデル」と称賛された。

 

今回はその名物市長が、これまたお馴染みとなった「暴言」を理由に辞職(政治家引退)。

 

今回の市長選に突入した。

泉氏の市長任期は、この4月いっぱい。

 

市長退任翌日の5月1日に出版される泉氏の著書『政治はケンカだ! 明石市長の12年』 がいま、話題を呼んでいる。

 

 

市長在任中にはけっして口に出来なかった、改革に抵抗する勢力との闘いの内幕を明らかにしているからだ。

聞き手を 朝日新聞政治部の著者で気鋭の政治ジャーナリスト・鮫島浩氏が務めている。  

 

市議会、政党、宗教団体、マスコミ、市役所職員……。

 

泉氏が「四面楚歌」の状態でいかに闘争してきたか、同書にはすべて記されている。

 

前回記事に引き続き、発売に先駆け、同書の内容を特別に公開する。  

連載『政治はケンカだ! 』第2回後編 前回記事【「障害者は放置して死んでいくのを待て」…医者の言葉に、明石市長・泉房穂が抱えた「強烈な違和感」】

故郷の明石を誰よりも愛し、誰よりも憎んでいる
 

鮫島 10歳で明石市長になることを決意した泉少年は、やがて東大に入学して故郷・明石を離れます。東大時代はどんな学生だったのですか?   

 18歳で大学進学と同時に上京し、故郷を離れるんですが、東京でも1日遅れで神戸新聞を取ってました。なぜかというと、神戸新聞の明石版を読むため。私はどこにいようが、ずっと神戸新聞の明石版を読み続けています。それは、世の中の誰よりも明石に詳しくなる必要があったから。おそらく、いまの私は全人類の中で一番明石に詳しいはずです。

だからこそ、私は故郷・明石のことを心から憎み、心から愛してるんです。誰よりも明石について知っているからこそ、まだ消えない理不尽に対して、誰よりも強い憎しみを抱いている。  

鮫島 それは凄い。本当に、明石市長になるために人生を懸けていたのですね。

 半端な思いでやってないんです。上海の北に人口750万人ほどの無錫(むしゃく)という市があり、1981年に明石市姉妹都市提携をしました。1986年、5周年記念を祝う式典が催され、明石市民が無錫に招待された。当時22歳の私は、呼ばれてもないのに勝手にバックパックを背負ってその会場に行きました。そして、式典が開催されたホテルの壁画を見ながら、「次は市長としてここに帰ってきて、この壁画を見る」と心に誓いました。  

実際に、それから25年経った2011年、姉妹都市30周年の記念式典で明石市吹奏楽団を引き連れて、市長として無錫に戻ることができました。その時は「25年かかったか」と感慨深いものがありました。 

鮫島 たくさんの政治家を見てきましたけど、自分の故郷を「心から憎み、心から愛している」と言い切れる人は初めてです。梶山静六(かじやませいろく)さんは、故郷・茨城への愛を「愛郷無限」と言いましたが、「故郷を愛する」と訴える政治家はたくさんいても、「心から憎み、心から愛している」という人はいない。

でも、憎しみがあったからこそ、「優しいまちに変えたい」という泉さんの政治家としての原動力が生まれた。これほど一貫した人生を歩んでいる政治家は他にいないかもしれません。

何より大切なのは、市民とともにいること


鯖島 学生時代、学生運動にも参加されていたそうですね?   

 学生運動のリーダーをやっていて、革マル派とも中核派とも喧嘩してました。中核派に「お前ら、中途半端な爆弾撃ってくんな」とかボロクソ言ってましたね。「どうせ撃つならしっかり狙って撃ってみい」と。我ながら、ホンマに危ない人やったんですよ(笑)。  

一応私は、駒場(こまば)寮(学生寮)の寮費値上げ反対の全学ストライキを決行した最後の実行委員長なんです。結局、負けてしまい責任を取らないといけなくなり、20歳のころ、いったん大学に退学届けを出してるんですけどね。  

私が学生だった80年代は、ちょうど、ポーランドレフ・ワレサが、民主化運動を引っ張っていた時代と重なってまして。ワレサが電気技師として働いていたグダニスク造船所に行ってしまうぐらい心酔してました。ワレサは、1980年に独立自主管理労働組合「連帯」を創設し、既存の社会主義体制を打倒すべく、民主化運動の先頭に立ち、1990年、ついに大統領になる。一人の労働者が一国の制度を変えていく過程を学生時代に見たことで「社会は変えられるんだ」と勇気をもらった。

同時期、チェコスロバキアでもヴァーツラフ・ハヴェルらが中心となり、民主化革命が成功しましたし、「民衆の力」というものを教えてもらいました。

翻って日本を見ると、残念ながら民衆・市民・国民が、自分たちの力で社会を変えた成功体験を持っていない。歴史を遡っても、貴族階級や武士階級の中でのクーデター的な政権交代はありましたが、常に「上の」交代にすぎず、民衆が主体となった「下からの」社会変革や革命は起きませんでした。  

私は、これはすごく問題だと思っていて、大学生時代から、日本でも民衆の立場で政治を変えていくことが必要だと考えていました。本気で革命を起こしたいと思っていた。自分にできることとしては、生まれ育った明石市の市長として、実際に社会を変えたという成功事例を示したいなと。  

そういう私の政治的なスタンスからすると、何党に付くかは問題ではなく、市民とともに進んでいければそれで十分。まあ、様々な既存の政党からしたら面白くないでしょうから、冷たくされることも多いですけど、そんなことはどうだっていい。私にとって、何より大事なのは、市民とともにいることなんです。  

鯖島 なるほど。現在の政治的状況は、有権者の立場からすると、二大政党政治の行き詰まりというか、二大政党のどちらも選びようがない状況だと思うんです。どっちもどっちで差が見えず、大政翼賛的に与党一色に染まりつつあり、野党が「もうひとつの選択肢」になり得ていない。そういった閉塞感が日本社会を覆い、低い投票率と政治不信に繋がっている。そんな状況のいまだからこそ、「市民とともに」独自の政策を貫く泉さん、そして明石市に注目が集まっていると感じます。

受理されていなかった東大の退学届け


鮫島 学生時代に話を戻します。大学に出した退学届けはどうなったんですか?   

 いったんは、完全に東京の家を引き払って明石に戻っていました。地元で塾でも開いて生活しなきゃいけない、ぐらいに思っていたんですね。結局、半年後に、当時の東大の学部長から「泉くん、何してる?」と電話がありまして。「自分らは負けたんだから誰かが責任を取らないと。だから退学して地元に戻った」と近況を伝えたところ、「本当にそれは君のやりたいことなのか。そうじゃないなら、君にはまだやるべきことがあるはずだ。みっともなくても恥ずかしくてもいいから、帰ってきなさい」と言われ、復学することになりました。 
   
結局、退学届けは受理されてなかったんです。涙を流しながら東京に戻り、卒業後NHKに入りました。その後、テレビ朝日に移り『朝まで生テレビ』の草創期を番組スタッフとして担当し、その後、石井紘基(いしいこうき)さんの本を読んで感動しまして。石井さんを国会に送り込むために、石井さんの近所に引っ越して秘書として選挙を応援しました。ところが、選挙で負けてしまい、石井さんに謝りました。

「私はあなたを(選挙で)通したかったけど、ダメでした。次こそ通しますから頑張りましょう」と。そしたら、石井紘基 さんに)「これ以上、君を引っ張りまわすわけにはいかない。騙(だま)されたと思って、まず弁護士になりなさい。君はいつか政治家になる。でも急いではいけない」と強く言われ、司法試験を受け弁護士になったのです。  

若くして立候補した政治家をたくさん見てきた石井さんは、「まずはちゃんと世の中を知るべきだ」とお考えだったんです。「弁護士として本当に困っている人を助けることで勉強しなさい」と。「いずれ政治家になった時に、弁護士としての経験が必ず生きてくる」というアドバイスだったのです。  

1997年、33歳の時に弁護士資格を取得して、明石市に戻り、市民活動のお手伝いなどに奔走しました。2000年4月に法律事務所を開業した時には、市民の方々からたくさんの胡蝶蘭(こちょうらん)が送られてきました。その時、すでに明石の一定の方々からは、「あの泉がついに明石のために帰ってきた」と認識されていたんですね。まあ、私の場合、子どもの頃から「どうかしてる奴」として有名でしたから(笑)。

なぜ一度国会議員になったのか
 

鮫島 明石市からしたら、「どうかしてる泉が、とうとう明石市長になるために帰ってきた」ということですね(笑)。ところが、故郷に戻ってすんなりと市長選に出たわけではありません。2003年の衆院選民主党から立候補して、国会議員になっています。これは、どういう流れだったのですか?   

 実は2003年の、私が40歳で迎える市長選に焦点を合わせて、そこから逆算して行動していたのですが、計算が外れてしまった。その前年には、実際に立候補しかけたんですけどね。当時の市長選には、親子二代で選挙に強い候補者が名乗り出ました。彼は当時、民主党系だったから、無所属の私が手を上げようとした時に、自民党NPO関係者が私を担ごうと近付いてきた。  

私は一貫して、市長選挙に出るときは完全無所属で出馬すると決めていたのでお断りしました。NPOと言っても、結局は既得権益だったりしますから、彼らの応援すらもいらないと考えていた。普通の市民とともに闘うことに意味があると、最初から考えていたんです。

でも、当時はどうあがいても勝ちきれない情勢が明らかになり、やむなく手を下げた。まだまだ自分は無力だと痛感しましたよ。それで市長選を見送り、意気消沈していたところに国政への出馬要請があったのです。暗殺された石井(紘基)さんの遺志を継ぐよう仲間から強く言われたこともあり、「それだったらいったん国政にいこう」と考え、2003年に兵庫2区から民主党公認という形で出馬したというわけです。  

あの時は、いわゆる落下傘候補で明石の隣の神戸市から出ることになったので、神戸市にも明石市にも後ろめたい気持ちがありました。「必ず明石市長として戻ってくるから」と心に誓い、再び東京に行くことになりました。  

国会議員になると、得られる情報が増えます。国会図書館や官僚を活用しまくって、明石市長になったらやるべきことの整理を始めました。フランスの少子化対策なんかもその頃に勉強して、市長になったら参考にしようと決めていた。  

10歳から明石市長になることに懸けてましたから、カッコつけた言い方をすると「なり方」にもこだわりたかった。市民だけを味方にして勝たないと、私にとっては意味がなかったんですね。中途半端に既得権益に担がれたら、結局、何の改革もできないまま任期を終えることになります。それだけは避けたかったのです。

連載第1回から読む【「日本一の子育て政策」「暴言、毒舌」で知られた明石市長・泉房穂氏がいま「本音」で話すこと…「『人から嫌われたくない』なんて思ったことはない」】  鮫島 浩(ジャーナリスト)/泉 房穂

(転載貼り付け終わり)

以上の記事を読んだ人は、皆、本気で考え込むはずだ。

そして、分かる人は、分かる。

この人が、日本国の次の指導者になるべきだ。

 

それだけの、条件と、経歴と経験と、生来の優れた頭脳と、それから、政治指導者に何よりも必要な、我慢強さと、人々を説得(せっとく)する情熱と、それから、何が有っても、決して国民(市民、住民、人民)を裏切らない、という信念が、きっと、この泉房穂(いずみふさほ)には有る。

私は、この人に一度もあっていないし、これまで、誰からも評価、評判を聞いていない。だから、あんまり早急に、「この人が、小沢一郎に次ぐ、日本の次の民衆(国民)の指導者だ」と、決めつけはいけないのだろう。

だが、私、副島隆彦の眼力から、私は、判断した。
この人は、素晴らしい人だ。

こんな生き方をして来た、人間は、他にはいない。

私は、今日は、これ以上は、私の泉房穂論は書かない。

これから追々(おいおい)書く。

それでも、私が、一点、ビリビリ来るのは、上記のインタヴュー記事の中にある個所だ。

「(東大を)卒業後 NHKに入りました。その後、テレビ朝日に移り『朝まで生テレビ』の草創期を番組スタッフとして担当し、その後、石井紘基(いしいこうき)さんの本を読んで感動しまして。石井さんを国会に送り込むために、石井さんの近所に引っ越して秘書として選挙を応援しました。・・・・・暗殺された石井(紘基)さんの遺志を継ぐよう仲間から強く言われたこともあり・・・」
とある。 

 

私、副島隆彦は、ここで、完全に、この泉房穂 という男に、同調する。

何があっても、この「どうかしている泉」が、東京に出てきて、60歳から、国民政治活動を、する、というのだったら、彼に、すぐに会いに行って、話して、何を、一緒に出来るかを、本気で考える。

指導者は、民衆(国民)が育てる。

この泉房穂のことを、これまで知っていた、明石市兵庫県の市民たちは、彼のことを何でも知っている。そして、ただの市民たちこそが、政治の主人公であるべきなのだ、と知っている。

それを、既成(きせい)の、バカ野郎の、利権屋政治ゴロたち(自民党公明党、他の野党ども)と、労働組合、それから、気色の悪い宗教団体などなど、が、激しく嫌う。

そこを、泉房穂は、たった一人で、持ち前の不屈の精神、優れた頭脳で、乗り越えて来た。

それが、偉い。

そして、私、副島隆彦が、死ぬほど感動したのは、上記のインタヴュー記事の中の、20歳台の終わりに、石井紘基(いしいこうき。民主党衆議院議員だった)の秘書をして、彼を支え続けたことだ。



石井紘基は、2002年10月25日に、東京世田谷の自宅を出たところで、刺殺された。

61歳だった。 

彼は、野党の政治家として、日本の政治の裏側の穢(きたな)い面を、徹底的に調べ上げて、国会で、まさしく追及している最中だった。

石井紘基が暗殺された事件は、21年経った今でも、私たち、本気で日本政治のことを考えている人間たちにとっては、最重要な事項だ。

 

石井紘基は、日本の財政問題の裏側の、アメリカにおる日本からの資金の奪い取りの調査だけでなく、オウム真理教という犯罪集団が、実は、統一教会(Moonies ムーニー)の表面の団体(フロントという)であったことまでも、当時、すでに、自分の選挙区での活動も通して知っていた。

それを防止する政治家としての活動もしていた。

だから殺されたのだ。

 

 

私の弟子のひとりは、この石井紘基の娘さんであるターニャさんと親しい。
泉房穂は、この殺された石井紘基の秘書を、自ら志願してやっていた。

このことの、素晴らしさの前に、私、副島隆彦は脱帽する。

だから、泉房雄を腹の底から信用する。

このように、私、副島隆彦が、「この泉房穂が、日本の次の指導者であるべきだ」と、書くと、おそらく、このあと、日本国内で、10万人の、この国で、ヘンな歪(ゆが)みが無く、かつ一番、頭のいい人たちが、真剣に、考えるだろう。

今日は、泉房穂が、市長時代に、実行し、実現した、明石モデルと呼ばれる、

1.18歳までの医療無償化  

2.第2子からの保育料の無償化  

3.中学校の給食の無償化 

4.公共施設の無償化  

5.おむつの 定期便 
という政策に、ついて、こんなことを本当にやった地方政治家 が、日本にいたとは、と驚いていている。

 

この「どうかしている泉」が、始めた明石モデルは、今、全国の他の自治体に、広がっているのだそうだ。

皆(みんな)の代表として、ひたすら民衆、市民の支持だけを頼りに、長い試練に耐えて、ここまでニコニコと(敵たちに向かっては、激しく口で批判するという)やってきた男を、私たち、日本国民が、今から、上に押し上げないといけない。

私、副島隆彦は、遅ればせなら、この泉房穂を、応援し、次の日本国の指導者となるべき人だと強く推薦する。 

副島隆彦