きなこのブログ

大失業時代が到来しています。大失業の恐ろしさを歴史から学ばなければならない。『大失業は戦争への道につながっている』

レッセ・フェール(ユダヤ自由放任思想)5 ~略奪を正当化する呪文~

「法に基づく支配」は米英金融資本による支配を正当化するための戯言 
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202308080000/

日本がアメリカに従属しているとは言えない。

 

従属している相手はネオコンであり、その背後にいるウォール街やシティ、つまり米英金融資本だ。

 

その支配システムの中心に存在しているセシル・ローズ人脈の拠点はシティだったが、現在、その人脈に地理的な拘束はない。



この支配システムは帝国主義と呼ばれていたが、現在の日本では「自由と民主主義」というタグが付けられている。

 

「法に基づく支配」が宣伝されているが、その「法」とは米英を支配している人びとの意志にほかならない。

 

「万国公法」が帝国主義の支配を正当化するルールだったように、「法に基づく支配」は米英巨大資本による支配を正当化するために考えられた呪文だ。

かつて地中海沿岸では文明が発達していた。

 

近代のヨーロッパ文明の源流をそこに求める人もいるようだが、地中海文明はヨーロッパ南部から現在のパレスチナ周辺、そして北アフリカにかけての地域で栄えたのだ。

 

その文明を現代ヨーロッパの中心国へ伝えたのは「十字軍」と名付けられた侵略軍、あるいは強盗団だと言えるだろう。



彼らは財宝だけでなく知識を盗み出し、その知識の中にはギリシャ文明に関するものも含まれていた。

 

十字軍による略奪がなければ、14から15世紀のルネサンスは実現しなかったのではないだろうか。

ヨーロッパが富を蓄積し始めるのはその後。

 

15世紀から17世紀にかけての「大航海」は略奪の時代だった。

 

スペインやポルトガルはそのときにアメリカ大陸を侵略し始め、1521年にエルナン・コルテスは武力でアステカ王国(現在のメキシコ周辺)を滅ぼして莫大な金銀を奪い、インカ帝国(現在のペルー周辺)ではフランシスコ・ピサロが金、銀、エメラルドなどを略奪しながら侵略を続けて1533年には帝国を滅ぼしている。

莫大な量の貴金属を盗んだだけでなく、ヨーロッパの侵略者は先住民を酷使して鉱山開発も行った。

 

その象徴的な存在がボリビアポトシ銀山

 

 

1545年に発見されたこの銀山だけで18世紀までに15万トンが運び出されたとされ、スペインが3世紀の間に南アメリカ全体で産出した銀の量は世界全体の80%に達したと言われている。

ただ、略奪の詳細は不明で、全採掘量の約3分の1は「私的」にラプラタ川を経由してブエノスアイレスへ運ばれ、そこからポルトガルへ向かう船へ積み込まれていた。

 

16世紀の後半にスペインはフィリピンを植民地化、銀を使い、中国から絹など儲けの大きい商品を手に入れる拠点として使い始める。

(Alfred W. McCoy, “To Govern The Globe,” Haymarket Books, 2021)

そうした財宝を運ぶスペインの船を海賊に襲わせ、奪っていたのがイギリスにほかならない。

 

エリザベス1世の時代にイギリス王室が雇った海賊は財宝を略奪しただけでなく、人もさらっていた。


ジョン・ホーキンスという海賊は西アフリカでポルトガル船を襲って金や象牙などを盗み、人身売買のために拘束されていた黒人を拉致、その商品や黒人を西インド諸島で売り、金、真珠、エメラルドなどを手に入れている。

 

 

こうした海賊行為をエリザベス1世は評価、ナイトの爵位をホーキンスに与えている。



フランシス・ドレイクという海賊は中央アメリカからスペインへ向かう交易船を襲撃して財宝を奪い、イギリスへ戻るが、ホーキンスと同じように英雄として扱われた。

 

女王はそのドレイクをアイルランドへ派遣して占領を助けさせるが、その際、ラスラン島で住民を虐殺したことが知られている。

 

その後も海賊行為を働いたドレイクもナイトになっている。



ホーキンスやドレイクについで雇われた海賊のウォルター・ローリーは侵略者のイングランドに対して住民が立ち上がったデスモンドの反乱を鎮圧するため、アイルランドにも派遣された。

 

ローリーも後にナイトの爵位が与えられている。

(Nu’man Abo Al-Wahid, “Debunking the Myth of America’s Poodle,” Zero Books, 2020)



アメリカへもヨーロッパ人が入り込んでくるが、そこには先住民、いわゆるアメリカ・インディアン」がすでに生活していた。

 

植民地を建設したイギリス系の人びとはイギリス軍と連合し、アメリカ・インディアンと手を組んだフランス軍と1754年から63年にかけて戦っている。

その後、植民地とイギリスが対立、1773年にはボストン港に停泊していた東インド会社の船に積まれていた茶箱を投棄されている。

 

いわゆる「ボストン茶会事件」だ。

 

 

1775年にはイギリス軍と植民地軍が軍事衝突、植民地側は76年に独立を宣言した。

その宣言には「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と謳われているが、先住民は人間として扱われていない。

 

勿論、奴隷も人間として扱われていない。

 

過酷な南部の綿花栽培で使われたアフリカ系の奴隷だけでなく、ヨーロッパ系やアジア系の奴隷もいて、「白人年期奴隷」という表現もある。


 

ヨーロッパからの移民たちはアメリカ・インディアンを虐殺しながら支配地域を東から西へ拡大させ、1890年12月には「フロンティアの消滅」が宣言された。

 

 

その時、サウスダコタのウンデッド・ニー・クリークにいたスー族を騎兵隊が襲撃し、150名から300名を虐殺している。

 

「自由と民主主義」を掲げる「正義の国」は虐殺されたアメリカ・インディアンの屍の上に築かれたのだ。

そうした殺戮の最中、徳川政権は日米修好通商条約の批准書交換のために遣米使節団を派遣した。

 

その時に咸臨丸も同行、使節団がサンフランシスコに到着したのは1860年3月のことだ。

 

そこで彼らが見たアメリカを民主主義国と表現することはできない。

 

その使節団に加わったひとりが後にアジア侵略を主張しているが、必然かもしれない。

イギリスはその前に中国(清)を侵略しようとしている。

 

インドを侵略、大儲けしていたイギリスだが、経済力で中国に太刀打ちできない。

 

そこで中国にアヘンを売りつけ、1839年から42年にかけてアヘン戦争を仕掛けている。

 

1856年から60年にかけては「第2次アヘン戦争(アロー戦争)」を行った。

 

当時、イギリスとアメリカはライバル関係にあったが、アヘン戦争にはアメリカ人も加わり、麻薬取引で大儲けしていた。

こうした戦争でイギリスは勝利したものの、征服はできなかった。

 

戦力が足りなかったからだ。

 

そこで目をつけたのが侵略拠点としての日本列島であり、傭兵としての日本人だ。

 

イギリスは長州と薩摩を利用して徳川体制を倒す。

 

これが明治維新であり、天皇制官僚体制の始まりだと言えるだろう。

 

この構図は第2次世界大戦後も維持されている。