求心力を失っている米国のバイデン大統領が東アジアの軍事同盟にテコ入れを図る
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202205240000/
ジョー・バイデン米大統領が5月22日にエアフォース・ワン(大統領専用機)で在日アメリカ軍の司令部がある横田基地へ到着した。
23日には岸田文雄首相と会談し、台湾を中国軍が攻撃した場合には軍事介入すると発言。
24日には日米とオーストラリア、インドの4カ国でつくる「Quad(クアッド)」首脳会議に出席する。
ヨーロッパからの移民が先住の「アメリカ・インディアン」を大量殺戮して作られた国がアメリカである。
最近は「先住民」と単純に呼ぶ人が多いようだが、この用語は一般的な名称で、「前に住んでいた人」を意味するだけ。
アメリカにおける虐殺の歴史は消えている。
1492年にクリストバル・コロン(コロンブス)がバハマ諸島に到着、1620年にはイギリスから「ピルグリム・ファザーズ」と呼ばれるピューリタンの集団がプリマスへ到着した。
その3年前、1617年にイギリス人が持ち込んだペスト菌で大陸東岸に住んでいた少なからぬ先住民が死亡している。
ピューリタンが本格的な移民を始めるのは1630年だ。
天然痘も使われた。
天然痘の患者が使い、汚染された毛布などを贈るという手法をイギリス軍は使っていたとされている。
19世紀になっても続けられていたという。
銃弾や爆弾だけでなく、病原体を彼らは使う。
1617年にマサチューセッツ湾へ到達したジョン・ウィンスロップは自分たちを「神から選ばれた民」だと主張、神との契約に基づいてマサチューセッツ植民地を建設すると語っている。
この感覚はその後も生き続け、アメリカ軍を「神の軍隊」だと考える人が1960年代にもいた。
ところが、ベトナム戦争でアメリカ軍は勝てない。
「神の軍隊」が勝てないことに不満を募らせた人びとの目の前に現れたのがイスラエル軍だった。
1967年6月の「第3次中東戦争」でエジプトやシリアの軍隊に圧勝、新たな「神の軍隊」になる。
この後、キリスト教系カルトがイスラエルを支持するようになり、ネオコンが勢力を拡大させる一因になった。
そのイスラエルは1948年5月に建国が宣言されているが、そこには先住のアラブ系住民(パレスチナ人)が生活していた。
1936年4月にパレスチナ人は独立を求めてイギリスに対する抵抗運動を開始するが鎮圧され、共同体は政治的にも軍事的にも破壊された。
その際、パレスチナ人と戦った勢力には2万5000名から5万名のイギリス兵、2万人のユダヤ人警察官、そして1万5000名のハガナ(シオニストの武装集団)などが含まれている。
後にハガナが中核となり、イスラエル軍が編成された。
アラブ系住民をパレスチナから消し去るため、シオニストは1948年4月4日に「ダーレット作戦」を発動された。
この作戦は1936年から39年にかけて行われたイギリスによるパレスチナ人を殲滅する作戦の詰めの作業だったという見方もある。
4月6日未明にハガナの副官、イェシュルン・シフがエルサレムでIZL(イルグン・ツバイ・レウミ)のモルデチャイ・ラーナンとレヒ(スターン・ギャング)のヨシュア・ゼイトラーに会い、ハガナのカステル攻撃に協力できるかと打診。
ハガナより過激な両武装集団は協力することになる。
IZLとレヒはデイル・ヤシンという村を襲撃するが、この村が選ばれた理由はエルサレムに近いことに加え、攻撃しやすかったからだ。
村の住民は石切で生活し、男が仕事で村にいない時を狙って攻撃するプランだった。
早朝ということで、残された女性や子どもは眠っている。
9日午前4時半にIZLとレヒはデイル・ヤシンを襲撃。
マシンガンの銃撃を合図に攻撃は開始され、家から出てきた住民は壁の前に立たされて銃殺された。
家の中に隠れていると惨殺、女性は殺される前にレイプされている。
襲撃の直後に村へ入った国際赤十字のジャック・ド・レイニエールによると、254名が殺され、そのうち145名が女性で、そのうち35名は妊婦。
イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されている。
ハガナもイルグンとスターン・ギャングを武装解除しようとはしなかった。
(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)
この虐殺を見て多くのアラブ系住民は恐怖のために逃げ出し、約140万人いたパレスチナ人のうち5月だけで42万3000人がガザ地区やトランスヨルダン(現在のヨルダン)に移住、その後、1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。
イスラエルとされた地域にとどまったパレスチナ人は11万2000人にすぎない。
同じ戦術をアメリカは2014年からウクライナでも実行しつつあった。
1948年5月14日にイスラエルの建国が宣言されたが、国際連合は同年12月11日に難民の帰還を認めた194号決議を採択。
この決議は現在に至るまで実現されていない。
気に入らないと「制裁」を連発するアメリカはイスラエルの擁護者だ。
パレスチナに「ユダヤ人の国」を建設する第一歩はイギリスの外相だったアーサー・バルフォアが1917年にウォルター・ロスチャイルドへ出した書簡だが、建国の大きな目的のひとつはスエズ運河の安定的な支配だったと考えられている。
運河によって地中海と紅海を艦船が行き来できることはイギリスの戦略上、重要だった。
この運河によってイギリスが南コーカサスや中央アジアで19世紀に始めた「グレート・ゲーム」は進化してユーラシア大陸の沿岸部を支配して内陸部を締め上げ、最終的にはロシアを制圧する長期戦略を作られた。
この戦略を進化させ、理論化したのがイギリスの地理学者、ハルフォード・マッキンダーである。
大陸を締め上げる三日月帯の西端がイギリス、東端が日本だ。
その途中、インドは東インド会社の時代から植民地で、中国(清)へはアヘンを密輸出、戦争に発展して勝利している。
その帯の上にイギリスはサウジアラビアとイスラエルを「建国」させたわけだ。
この戦略の中でイギリスは日本でクーデターを実行させ、明治体制(天皇制官僚国家)を作り上げる。
その一方、アメリカは1776年に独立を宣言、その後もアメリカ・インディアンを虐殺しながら支配地域を東から西へ拡大させ、1845年には太平洋岸に到達した。
1846年にアメリカはメキシコと戦争をはじめ、テキサス、ニュー・メキシコ、カリフォルニアを制圧。
フロンティアの消滅が宣言された1890年にはサウスダコタのウンデッド・ニー・クリークにいたスー族を騎兵隊が襲撃し、150名から300名を虐殺している。
ウイリアム・マッキンリーが大統領に就任した翌年、1898年にアメリカの中南米侵略を本格化させる引き金になった事件が起こる。
キューバのハバナ港に停泊していたアメリカの軍艦メインが爆沈したのだ。
アメリカはスペインが爆破したと主張、宣戦布告して米西戦争が始まる。
マッキンリーは戦争を回避しようとしていたが、海軍次官補だったセオドア・ルーズベルトが独断で戦争へとアメリカを引きずっていった。
この戦争に勝利したアメリカはスペインにキューバの独立を認めさせ、プエルトリコ、グアム、フィリピンを買収することになる。
ハワイも支配下におく。
フィリピンは中国へ乗り込む橋頭堡としての役割を果たすことになった。
その際、アメリカ軍がフィリピンで行った先住民の虐殺は悪名高い。
米西戦争を主導したセオドア・ルーズベルトは1880年にハーバード大学を卒業しているが、その2年前に同大学のロースクールで法律を学んでいた日本人がいる。
そのひとりが金子堅太郎。
そうしたこともあり、1890年にセオドアの自宅でふたりは会ったという。
セオドアは1901年、大統領に就任する。
アングロ・サクソン系のイギリスとアメリカはスラブ系のロシアを敵視、そのロシアを押さえ込むために日本を利用しようとした。
日露戦争の後、セオドアは日本が自分たちのために戦ったと書いている。
こうした事情を理解していた金子はシカゴやニューヨークで、アングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦ったと説明していた。
(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)
明治体制は琉球併合、台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争へと突き進むが、これはイギリスやアメリカの戦略と合致している。
ユーラシア大陸東岸にアメリカが最初に築いた侵略拠点はフィリピンだが、日本列島はそれに次いで古い。
マッキンダーの戦略をアメリカ支配層は第2次世界大戦後も踏襲し、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」はマッキンダーの理論を基盤にしたが、今も基本的に変化していない。
アメリカ海軍は2018年5月、「太平洋軍」という名称を「インド・太平洋軍」へ変更した。
太平洋からインド洋にかけての海域を一体のものとして扱うことを明確にしたのだが、これもマッキンダーの戦略に沿っている。
日本を太平洋側の拠点、インドをインド洋側の拠点にし、インドネシアが領海域をつなぐとされたが、インドがロシアとの関係を強化し、インドネシアもアメリカと距離を置き始めている。
中曽根康弘は総理大臣に就任して間もない1983年1月にアメリカを訪問、ワシントン・ポスト紙のインタビューで日本列島を「巨大空母」と表現した。
続けて「日本列島をソ連の爆撃機の侵入を防ぐ巨大な防衛のとりでを備えた不沈空母とすべき」であり、「日本列島にある4つの海峡を全面的かつ完全に支配する」とし、「これによってソ連の潜水艦および海軍艦艇に海峡を通過させない」と語る。
「不沈空母」を誤訳とする人がいたが、おそらく、イスラエルがそうした表現を使っていたからで、「巨大空母」と本質的な違いはない。
その巨大空母から沖縄(琉球)、台湾という軍事ラインを今もアメリカは戦略的に使っている。
韓国は大陸侵攻の橋頭堡だ。
南シナ海の支配ではフィリピンの役割が重要になる。
アメリカは東アジアにおける軍事同盟として「クワド」を組織した。
アメリカのほか、オーストラリア、インド、そして日本で構成されているが、インドはアメリカ離れしつつある。
そこで新たに作り上げたのがアメリカ、オーストラリア、そしてイギリスをメンバー国とする「AUKUS」だ。
アメリカとイギリスの技術でオーストラリアは原子力潜水艦を建造するという。
南シナ海は中国が進めている一帯一路(BRI/帯路構想)のうち「海のシルクロード」の東端。
ここからマラッカ海峡を通過、インド洋、アラビア海を経由してアフリカやヨーロッパへつながっている。
安倍晋三は首相だった2015年6月、赤坂にある赤坂飯店で開かれた懇親会で「安保法制は、南シナ海の中国が相手なの」と口にしたというが、
https://gendai.ismedia.jp/articles/print/43909
その発言の背景はこうしたアメリカ側の戦略がある。
海上自衛隊は「ヘリコプター搭載護衛艦」の「いずも」を2010年に発注、15年に就役させている。
この艦船は艦首から艦尾まで平らな「全通甲板」を有して多数のヘリコプターを運用でき、艦砲、対艦ミサイル、対空ミサイルを持っていない。
いずれも外観はアメリカ海軍の強襲揚陸艦「アメリカ」を連想させる。
MV22オスプレイやF-35Bの購入などともリンクしている。
「いずも」に続いて「かが」も就航した。
こうした艦船の建設は安倍晋三の発言と結びついている。
アングロ・サクソンの世界制覇プランは第2次世界大戦後、「冷戦」という形で均衡が保たれていたが、1991年12月のソ連消滅で均衡が崩れる。
ネオコンなどアメリカの好戦派は自国が「唯一の超大国」になったと認識、好き勝手にできる時代になったと考えた。
ところが日本の細川護熙政権は国連中心主義から離れない。
そこでマイケル・グリーンとパトリック・クローニンはカート・キャンベルを説得して国防次官補だったジョセイフ・ナイに接触、ナイは1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表している。
キャンベルは現在、NSC(国家安全保障会議)でアジア地域の責任者だ。
そうした中、日本では衝撃的な出来事が立て続けに引き起こされた。
1995年には3月の地下鉄サリン事件、
その直後に警察庁長官だった國松孝次が狙撃され、
8月にはアメリカ軍の準機関紙であるスターズ・アンド・ストライプ紙に日本航空123便に関する記事が掲載されている。
その記事の中で自衛隊の責任が示唆されていた。
それ以降、日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていく。
アメリカではビル・クリントン政権で国務長官がウォーレン・クリストファーからマデリーン・オルブライトへ交代した1997年に1月から戦争へと向かい始める。
1998年4月にアメリカ上院はソ連との約束を無視してNATOの拡大を承認、その年の秋にオルブライト国務長官はユーゴスラビア空爆を支持すると表明、99年3月にアメリカ/NATO軍はユーゴスラビアを先制攻撃。
その際にスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領の自宅を破壊し、中国大使館を爆撃している。
バラク・オバマ政権が2013年11月から14年2月にかけてウクライナで実行したクーデターはその延長線上にあり、現在の戦乱はその続きにすぎない。
1992年から30年間、西側で「戦争反対」の声はか細かった。
反戦運動やリベラル派は消えたという声もしばしば聞いた。
もっとも、戦争に反対する人は少数派である。
ベトナム戦争でも戦争に反対する人が増えるのは終盤になってからだった。
そこで1967年4月4日にニューヨークのリバーサイド教会で「ベトナムを憂慮する牧師と信徒」が集会を開いたのである。
その主催者は「沈黙が背信である時が来ている」と訴えているが、その訴えにキング牧師は賛意を示し、「なぜ私はベトナムにおける戦争に反対するのか」と話している。
ロン・ポール元下院議員によると、キング牧師の顧問たちはベトナム戦争に反対するとリンドン・ジョンソン大統領との関係が悪化すると懸念、牧師に対してベトナム戦争に焦点を当てないよう懇願していたという。
https://ronpaulinstitute.org/archives/featured-articles/2018/january/15/who-killed-martin-luther-kingand-why/
それが「リベラル派」の実態だった。
そうしたアドバイスを牧師は無視、発言のちょうど1年後に暗殺された。
人種差別も侵略戦争も根源は同じ。
つまり資本を握る富豪が大多数の労働者を支配する仕組みそのものを問題にしなければならない。
支配者は逆に、人びとの目をそうした問題からそらさせる必要がある。
「労働者階級」を「白人下層中産階級」と呼ぶようになったとニューヨーク誌が指摘したのは1969年4月14日号だ。
「労働者」というタグで白人と黒人が結びつくことを恐れたのかもしれない。
ベトナムへの本格的な軍事作戦をジョンソン政権が始めたのは1964年のことだが、軍事介入を正当化するために言われた口実は嘘だった。
7月30日に南ベトナムの哨戒魚雷艇が北ベトナムの島、ホンメとホンニュを攻撃、31日にはアメリカ海軍の特殊部隊SEALsの隊員に率いられた20名ほどの南ベトナム兵がハイフォンに近いホンメ島のレーダー施設を襲撃。
この襲撃に対する報復として、北ベトナムは8月2日、近くで情報収集活動をしていたアメリカ海軍のマドックスを攻撃したと言われている。
しかし、リンドン・ジョンソン大統領は議会幹部に対し、公海上にいたアメリカの艦船が北ベトナムの攻撃を受けたと説明、8月7日にアメリカ議会は「東南アジアにおける行動に関する議会決議(トンキン湾決議)」を可決した。
この決議を受けて1965年2月から北ベトナムに対する本格的な空爆、ローリング・サンダー作戦が始まる。
ベトナム戦争後、「反戦運動」は衰退し、アメリカの侵略戦争を正当化するために「良い戦争」というタグも使われるようになった。
アメリカの好戦派が1990年代に侵略戦争を始めた時に「反戦」、あるいは「平和」の声を多くの人があげていれば、その後の世界は今と違うものになっていただろう。
現在、バイデンを含む西側の好戦派はロシアと中国を核戦争で脅してるが、この脅しは機能しない。
中国との戦争宣言とも受け取れる米大統領の発言を米政府が軌道修正
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202205240001/
来日したジョー・バイデン米大統領は5月23日に岸田文雄首相と会談し、台湾を中国軍が攻撃した場合には軍事介入すると発言した。
アメリカの大統領だったリチャード・ニクソンが1972年2月に中国を訪問、両国の国交を正常化した。
その際にアメリカ政府は中国を唯一の正当な政府と認め、台湾の独立を支持しないことを表明している。
バイデン大統領の発言はこの合意を否定するものだと受け取られ、中国政府が反発しただけでなく、アメリカ政府も軌道修正を図った。
アメリカの対中国政策に変化はないと発表したのだ。
バイデン大統領の周辺にはロシアや中国に対して好戦的な集団が存在しているが、それに抑制しようとしている勢力も存在しているのだろう。
第2次世界大戦後、ハリー・トルーマン政権は中国に国民党政権を樹立する予定で、支援していた。
東ヨーロッパをソ連が占領することを認めるという条件でヨシフ・スターリンも蒋介石体制を容認していたと言われている。
トルーマン政権は蒋介石に対して20億ドルを提供、軍事顧問団を派遣していた。
1946年夏の戦力を比較すると国民党軍は200万人の正規軍を含め総兵力は430万人。
それに対し、紅軍(コミュニスト)は120万人強にすぎず、装備は日本軍から奪った旧式のものだった。
国民党の勝利は明らかなように見えたが、1947年の夏になると農民の支持を背景として人民解放軍(47年3月に改称)が反攻を開始。
その段階の兵力は国民党軍365万人、人民解放軍280万人。
1948年の後半になると人民解放軍が国民党軍を圧倒するようになり、49年1月に解放軍は北京に無血入城、コミュニストの指導部も北京入りし、5月には上海を支配下に置いた。
その上海にはアメリカで極秘裏に創設された破壊工作機関OPCが拠点を置いていたが、国民党の敗北が明確になると拠点を日本へ移動、その中心は厚木基地だったと言われている。
OPCの後ろ盾は巨大金融資本、いわゆるウォール街で、1950年10月にCIAへ潜り込み、破壊工作部門の中核になる。
その年の終わりまでにOPC/CIAは日本で1000人以上を工作員として訓練したという。
(Richard J. Aldrich, “The Hidden Hand”, John Murray, 2001)
日本は中国を攻撃するための兵站基地になることが見通されたが、運送手段がストライキなどで止まると戦争はできない。
ところが当時、日本では労働運動が盛り上がっていた。
陸上の運送は国鉄が中心になるが、そこの労働組合は強力。
その組合を潰す必要がある。
そうした中、引き起こされたのが国鉄を舞台とする怪事件だ。
1949年7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件である。
国鉄の労働組合は壊滅的なダメージを受けた。
日本から大陸へ物資を運ぶのは船。
アメリカ政府としては、日本の港でストライキが起こることも防がなければならない。
そして1952年に創設されたのが「港湾荷役協議会」だ。
会長に就任したのは山口組の田岡一雄組長。
その後、山口組が神戸港の荷役を管理することになり、東の重要港である横浜港を担当することになったのが藤木企業の藤木幸太郎だ。
その間、1950年6月22日に日本で興味深い夕食会がニューズウィークの東京支局長だったコンプトン・パケナムの自宅で開かれた。
参加したのはアメリカ側からはジョン・フォスター・ダレス、国務省東北アジア課長ジョン・アリソン、ニューズウィーク誌の外信部長だったハリー・カーン、そしてパケナム。
日本から出席したのは大蔵省の渡辺武、宮内省の松平康昌、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三。
渡辺は元子爵で後に駐米公使になり、松平は元侯爵で三井本家家長の義兄に当たる宮内省の人間。
松平康荘の子どもだが、康昌が生まれる前に康荘は慶民を養子にしている。
この慶民は初代宮内府長官。
また沢田廉三は外交官で、結婚した相手は三菱合資の社長だった岩崎久弥の娘、つまり岩崎弥太郎の孫で孤児院のエリザベス・サンダースホームの創設者として有名な美喜。
海原治は国家地方警察企画課長で、国家警察予備隊、後の自衛隊を創設する際に中心的な役割を果たすことになる。
夕食会の3日後に朝鮮戦争が勃発、その翌日にはダレスに対して天皇からメッセージが口頭で伝えられている。
伝えたのはパケナム。
軍国主義的な経歴を持つ「多くの見識ある日本人」に会い、「そのような日本人による何らかの形態の諮問会議が設置されるべき」だという内容だった。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年)
中国で人民解放軍の勝利が決定的になった直後、OPCは中国共産党の幹部を建国の式典で皆殺しにし、偽装帰順させていた部隊を一斉放棄させるという計画を立てていた。
その計画が発覚、朝鮮戦争が始まる。
朝鮮戦争は泥沼化、1953年7月に休戦協定が成立するが、その2カ月前にベトナムではアメリカの支援を受けていたフランス軍がディエンビエンフーで北ベトナム軍に包囲され、翌年の5月に降伏している。
フランスが降伏する4カ月前、1954年1月にジョン・フォスター・ダレス国務長官がベトナムでのゲリラ戦を準備するように提案。
その年の夏、ダレス国務長官の弟であるアレン・ダレスが長官だったCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成、破壊活動を開始。
その延長線上にアメリカのベトナム戦争はある。
朝鮮戦争もベトナム戦争も背景には対中国戦争があるのだが、ニクソン政権は方針を転換して中国との国交を回復、米中とソ連の戦いという構図を作った。
この段階でベトナム戦争を継続する意味はなくなったと言えるだろう。
ニクソンは中国訪問の最終日に上海で共同コミュニケを発表、それに基づいてアメリカと中国は関係を築いてきたのだが、バイデンはその取り決めを壊すかのような発言をした。
その見方が正しいなら、アメリカは中国と戦争をするということになる。
すでにアメリカが戦争を始めている相手のロシアと中国は「戦略的同盟関係」にあるわけで、アメリカはロシアと中国の連合軍と戦わなければならない。
アメリカに従うのはイギリス、オーストラリア、日本くらいだろう。
バイデン政権では国務省やCIAが戦争に前向き。
フィリップ・ブリードラブ元SACEUR(NATO欧州連合軍最高司令官)も核戦争への恐怖がウラジミル・プーチン露大統領に対する適切な対応を西側にとらせないと主張しているが、マーク・ミリー統合参謀本部議長はウェスト・ポイント(陸軍士官学校)の卒業式でロシアと中国を相手にする可能性に言及した。
https://www.rferl.org/a/breedlove-nuclear-fears-west-deterred/31791020.html
バイデン政権の言動は米中との戦争を引き起こすと警告したのかもしれない。