きなこのブログ

大失業時代が到来しています。大失業の恐ろしさを歴史から学ばなければならない。『大失業は戦争への道につながっている』

岸田首相は統一教会(安倍派)を解体し排除するか 3-3

いよいよ、ここから、インドネシアの話に戻る。

 

インドネシアという日本の南の方に有る大きな国(スマトラ島とジャワ島という大きな島=それぞれ人口1億人ぐらいと、その他の多くの島嶼=とうしょ=が1万2千島もあると言う。ボルネオ島ニューギニア島など。そこに7千万人から成る )が、本当に、急激に、世界政治(ワールド・ポリテイックス)で、重要な国に競(せ)りあがって来た。

このことの説明をする。

 

私の以下の文章を読んだ人は、きっと全員、驚くだろう。


「そんな、重大な事実がインドネシアに有ったとは、知らなかった。これまで誰も教えてくれなかったよ」と。

何が重大なことかを簡略に書く。

 

ところが、私が簡略に書こうとすると、またこれが大量の文書になる。

 

実に困ったことだ。

 

私の長文を読む脳の訓練ができていない人たちは、ここで すでにたくさん脱落するようだ。

 

仕方がない。

インドネシアはもう、人口が2億7千万人もいる。

 

ほんのこないだまで、2億人だと思っていたら、もうすぐ3億人である。

 

非常に若い国である(老人はさっさと死ぬ)。

 

インドネシアジョコ・ウィドド大統領は、見るからに実直な男で全く威張る気配もなく、世界水準の大物政治家に到達した(現在62歳)。

 

華僑系の血も入っているようだ。

 


貧乏な家具屋から地元の市長になり(2005年、44歳)その後、ジャカルタ首都州知事になって、それから国民の信望を集めて大統領になった。

 

今年、2期目10年で辞める。

 

だが、ジョコは極めて頭のいい男だから、今年の2月14日の大統領選挙に向かって、素晴らしい奇策に出ている。

ジョコの実の父親は、1965年(今から58年前だ。私は、12歳だ)の軍事クーデターの時に殺されていようだ。

 

ここにはインドネシアという国が背負った、悲惨(ひさん)極(きわ)まりない過去の悲劇が横たわっている。

 

300万人のインドネシア共産党支持者と華僑が殺された。

 

私は、ずっと、50万人ぐらいだろうと思っていた。

 

そのように本とかに書いてあった。

ジョコはなんと、自分の長年の政敵で、インドネシア国軍、と、狂暴な暴力団(パンチャシリ)とか反共右翼たちを取りまとめて握って、支配してきた、見るからに悪い顔をしたプラボウォという男を、何と、2019年には、自分の国防長官(国防相)に抜擢してきた。 

 

過去2回大統領選挙(2014年と2019年)で、このプラボウォに勝っている。

 

下に載せた写真の顔つきを見たら分かるでしょう。

 

 

この極悪人だったプラボウォが、今年の2月14日の大統領選挙で当選することが、ほぼ決まっている。

 

このプラボウォは、かつて、40年間インドネシアを独裁者として支配した、スハルトの娘(次女)と結婚している。

 

1997年7月の「アジア通貨危機」(香港返還の4日後からはじまった)の時に、スハルトは、アメリカから捨てられて、翌年、大統領を辞めた。

 

 

わざとらしくアメリカが仕組んだ反政府デモが起きていた。

 

日本から橋本首相が「もう辞めなさい」と説得に行っている。

ここからが重要だ。

 

プラボウォが次の大統領になるということは、インドネシアは再び恐ろしい軍事独裁の反響右翼の、アメリカの手先の国に戻る、ということを意味している。と普通は考える。

ところが、どうも、そうではないようだ。

 

この悪人だったプラボウォが、本気で反省して悔悛(かいしゅん・犯した罪を悔い改めること。)したらしいのである。

 

プラボウォは、政敵であった、ジョコ・ウィドドに、2015年から、強く説得され教育されて、考えを改めたのである。

 

ここが、日本から見ていて、インドネシア研究の専門の学者や新聞記者たちでも、分からない点だ。

インドネシア「1965年にすさまじい軍事クーデターが起きて、300万人のインドネシア共産党員と華僑系の人間たちが殺された。私はずっと、殺されたのは50万人ぐらいだろうと思っていた。」

 

ところが、2014年に公開されたオランダとスウエーデン製のインドネシアの政治の世界を描いた、ドキュメンタリー映画アクト・オブ・キリング」(2012年作)が、2014年に日本でも公開されて、私たちに衝撃を与えた。

 


どうやら300万人だったようだ。

 

「針金で区部をぐるぐる巻きにして、出血しないで絞め殺して、布袋に入れて、ソロ川に、放り込んだ。」

そのことを証言している、恐ろしいヤクザ者たちが、踊りを踊りながら、自分の青年時代の蛮行を、不敵な笑い顔で、ずっとしゃべっていた。

 

私はこの映画を見て、ぞっとした。

 

このことは、後で述べる、

この事実は、デヴィ夫人の回想禄とも重なる。

 

このデヴィ・スカルノという、日本の庶民層から這い上がった、下品だけれども、世界基準では貴族をきどる女性がたどった、この数奇な人物が重要だ。

 

彼女は、インドネシアイスラム国家)の国王(大統領)の正式の第4夫人だから、“プリンセス・デビ“と正式に、ヨーロッパの社交界で呼ばれる人物である。

 

デヴィは、スカルノ大統領と結婚した。

 

日本からの貢ぎ物である。

 

 

ジャカルタに渡って、1年もしないで、クーデターが起きた。

 

この大混乱に巻き込まれて、お屋敷の窓から逃げ出すようなことまでして、デヴィは生き延びた。

 

敵のスハルト派の将軍の奥さんたちとも親しかったからだ。


夫のスカルノは、その後、幽閉されて、もう2度と会えなかった。

 

その時にお腹に出来ていた、娘のカリーナが、この後、生まれて本当によかった。

 

この話もずっとしなければいけない。

プラボウォはこの、「9・30クーデター」の大虐殺ときに24歳である。

 

まだ下っ端軍人であった。

 

それでも大量殺戮に下級将校として加わっている。

 

この時の集団殺戮は、銃や刃物で殺すのではなくて、針金を首にぐるぐる巻きつけて、血が出ないようにして、袋にいれて、あの有名なソロ河に投げ込んだ。

 

すさまじい残虐行為であった。

これをやらせたのは、アメリカのCIAであった。

 

アメリカに反抗的だったスカルノを倒して、その次に、軍人のスハルトを大統領に立てて、インドネシアアメリカの直接の支配下においた。 

 

Clyde MacAroy クライド・マッカーロイ という、このあと駐インドネシア・大使になった男が、この大虐殺を、スハルト将軍のインドネシア軍に実行させた。

 

殺害すべき人間たちは、すべて、事前にCIAが調べていたとおりの情報と資料に基づくものだ。


副島隆彦の歴史再発掘』P223

 


副島隆彦の歴史再発掘』(ビジネス社、2019年刊)

 

1965年というのは、日本では、東京オリンピックの次の年だ。新幹線も通って、高度経済成長で、アメリカの指導のもとで、日本が、どんどん豊かな国になり始めた年だ。


このときインドネシアは地底(じぞこ)に沈んだ。

 

本当に、世界の舞台から消えて、真っ暗な、南洋の 地獄の国となった。

 

それから50年たって、ようやくインドネシアは復興しようとしている。

次の新興大国として、意気揚々と、世界の檜(ひのき)舞台に戻ってきた。

 

私はインドネシアに行ったことがないから、何でも見てきたようなウソは書けない。

 

だが、物凄く感慨深いものがある。

 

今、インドネシア人が、日本に観光旅行でたくさん来ている。

 

男でちょっと偉い人達は、丸い四角い帽子をかぶっているのだが、それはほとんど見かけない。

 

女の人たちの、イスラム教徒のヴェール(アバーヤの上)を頭に被っている。

 

 

カラフルな色ものは、マレーシア人だ。

 

地味な灰色か黒を着ているのが、インドネシア人女性だ。

どちらも同じ、マラヤ人である。

 

マラヤ人は、元々はインドから来たイスラム教徒たちだ。 

 

マレーシアは16世紀の500年間、イギリスの植民地だった。

 

インドネシアは同じく500年間、オランダの植民地だった。

 

そのオランダから1946年に、早くも独立した。

 

激しい独立戦争を戦ったから、インドネシア人はオランダ、イギリス人を今も大嫌いである。

 

そして、このインドネシア独立運動を、本気で助けてくれた旧日本軍の軍人たちが大好きなのだ。

 

旧日本軍は、インドネシアでは、ほとんど悪いことをしていない。

だから今もインドネシアは、ものすごく親日(しんにち)的な国である。

 

このことを日本人があまり分かっていない。

 

去年の8月、徳仁(なるひと)天皇と雅子皇后が、即位後の初めての外国として、国賓として訪問した。

 

 

この時、ジョコ・ウィドドの奥様(大統領夫人)と雅子皇后が、一緒に歌を歌った。

 

それは「ブンガワンソロ・・・・」という歌である。 

 

「ブンガワンソロ。川の流れに・・・・」という歌だ。

これはインドネシア人が、オランダから独立するときの、独立を誓った時の、民衆の歌である。

 

このインドネシア独立運動があまりにもうまく行き過ぎたから、その後に、大きな悲劇が生まれたのだ。


日本が1945年の8月に8月に敗戦した後、武装解除されて捕虜収容所に入れられた10万人? の日本兵のうち、2000人の日本人が、その後も、インドネシアに居(い)残った。

 

日本に帰っても、もう日本は焼け野原だ。

 

復興なんかできない、と思ったらしい。

 

ほとんどの日本兵捕虜は帰っていった。


だが、現地人の女性と結婚して子供をつくった日本兵たちは帰らなかった。

 

彼らが「ムルデカ」という軍事組織を作って、戦争中からインドネシア人の青年たちを軍事訓練して、武器弾薬を与えて、独立運動を本気で助けた。

インドネシアは他のアジア諸国と違って独立戦争がものすごくうまくいった。

 

内部での紛争も全くなかった。

 

スカルノとハッタ(副大統領になる)の2人が指導者になって、日本軍の支援を受けながら、さっさと独立後の新国家をつくった。

 

彼ら、独立運動の青年たちを育てたのは現地への派遣軍の日本軍だ。

 

特に偉かったのは、今村均(いまむら きん。ひとし)大将である。


 

インドネシアのことを、蘭印(らんいん)という。

 

「イランダ植民地のインド」という意味だ。

 

ここへの派遣軍の司令官(第16軍司令官)であった、この今村均大将は、おどろくほどに立派な軍人であり、ものすごく部下たちから戦後も尊敬された。

 

現地のインドネシア人を全く虐(いじ)めなかった。

だから、スカルノたちがオランダ軍とイギリス軍に対して一気に勝利した。

 

インドネシアのかなり東のはずれのニューブリテン島のラバウル航空隊という、とんでもない東方に、日本軍の陸軍と海軍の駐屯地があった。

 

ここを今村は、最後に、要塞化して、自給自足の態勢を築いた。

 

だから、米軍(マッカーサー大将)はラバウルは強いので、ほったらかして、先へ先へと進軍した。

 

ラバウル日本兵たちは餓死しないように作物を植えて生き延びた。

 

それを指揮したのも今村均大将である。

今村は戦後、裁判にかけられたが、何も悪いことをしていないので、有罪にならなかった。

 

ところが今村は、自ら進んで、自分の部下たちがいるインドネシアの刑務所に入りにいった。

 

マッカーサーがひどく感心したらしい。

 

2年くらい入ってから日本に帰って来た。

 

このことは、小説家の角田房子(つのだふさこ)が書いた「責任 ラバウルの将軍 今村均」(1984年刊)に詳しく描かれている。