きなこのブログ

大失業時代が到来しています。大失業の恐ろしさを歴史から学ばなければならない。『大失業は戦争への道につながっている』

エジプト市民の大虐殺の背後に米国が存在する

市民大虐殺を暴徒化デモ隊排除と表現するメディア
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-a138.html
 
エジプトで進行している事態は、軍事クーデター政権による市民の大虐殺である。

日本のメディアは暫定政権による外出禁止命令を無視して暴徒化した反政府勢力の排除と表現するが、真実を歪曲するものである。

1989年6月に中国で発生した天安門広場での人民解放軍によるデモ隊排除を日本のメディアは一斉に非難した。

いまエジプトで展開されている大規模な市民虐殺を、日本のメディアはなぜ「虐殺」と表現せず、「デモ隊の強制排除」と表現するのか。

理由は単純である。

軍事クーデター政権の背後に米国が存在するからである。

米国は表向き、軍事クーデター政権の市民大虐殺を牽制する姿勢を示すが、軍事クーデター政権の非正統性を主張しない。

エジプトがイスラム主義によって支配されることを恐れるからである。

アラブの春」によってムバラク政権が崩壊された。

2012年の大統領選で選出されたムルシ政権の支持基盤がムスリム同胞団である。

ムスリム同胞団パレスチナハマスと連携しており、このムルシ政権がイスラエルパレスチナ和平交渉を進展させる可能性を有していた。
 
イスラエルにはパレスチナとの和解を進展させようとする穏健派とパレスチナに対する譲歩を認めないとする右派強硬派が存在し、このパレスチナ右派強硬派側に位置するイスラエル秘密警察組織モサドがエジプトにおける軍事クーデターを裏側から主導していると見られる。

米国の対応が不明確であるのは、米国内にイスラエル右派強硬派に近い勢力が根強く存在するからである。

エジプト軍事クーデター政権による市民大虐殺を正面から容認できない一方で、この軍事クーデター政権の非正統性をも主張できないのである。

イスラム原理主義には「聖戦」の考え方があり、力による制圧、武力による抑圧は中期的にさらなる混乱の拡大をもたらす可能性が高い。

世界は西暦2000年を境に、「西の文明」から「東の文明」に中心を移し、2000年から2800年まで続く「東の文明」の時代に移行する、いま入口にあると見られる。

米国支配の世界秩序が、行きつ戻りつしながら、次第に崩壊してゆく過程に移行する。

米国による支配を継続するために仕掛けられた「アラブの春であったが、パンドラの箱が開けられれば、時代は確実に大混乱の局面に移行する。
 
エジプト軍事クーデター政権は力による制圧=市民大虐殺の道に足を踏み入れたが、これが是認されることはない。

国際社会はエジプト軍事クーデター政権の正統性を認めず、この軍事クーデター政権による市民大虐殺を抑止する行動を示すべきである。

中国人民解放軍が中国市民によるデモ隊を600人規模で大虐殺したら、日本のメディアはどのような報道を展開するのか。

いま、エジプトで展開されている光景は、武器を持たない市民に対して、武装したエジプト軍が発砲し、600人規模の市民を虐殺しているものである。

人権抑圧、非人道的行動を取っているのが誰であるかは歴然としている。

ところが、米国はこのエジプト軍事クーデター政権を否定せず、米国からの資金支援武器支援を中止する方針を示さない。

エジプト軍は米国が資金支援し、武器支援して育ててきた軍隊なのである。
 
この米国がエジプト軍事クーデター政権を非正統政権として否定しないから、日本のメディアは、エジプト軍事クーデター政権による市民大虐殺を、 「暫定政権による反政府デモ隊の強制排除」 としか伝えない。

エジプト国籍を持つフィフィさんは、

「どうやらエジプト国民の声はメディアの方々には全く反映しないらしい。クーデターの黒幕である米国の存在を解説するのは御法度だから政府が同胞団の暴徒化を鎮静化したと歪曲する。使命感も正義感もない。マンマの為に働いてるだけ。サラッと報道した形を見せるだけ、真実を伝える気などさらさらない。」

「私は日本のメディアに何を期待してるんだ、いや、何も期待していない。ただ歪曲するくらいなら報道してくれるなと言いたい。」

ツイッターで訴える。
 
 
私たちは、世界の出来事を直接自分の目で見て、自分の言葉で語り、自分の頭で考えていない。

メディアが伝える言い回しを経由してしか捉えていないのだ。

メディアが「人権無視・極悪非道の大虐殺」と 報じる なら、その言い回しを入り口にして自分の判断の一部とする。

しかし、メディアが、 「暫定政権による暴徒化した反政府デモ隊の強制排除」 と表現すると、その言い回しを出発点にものごとを認識してしまう。

元CIA職員のスノーデン氏のことを、日本のメディア「容疑者」呼称をつけて表現する。

アル・カイーダのウサマ・ビン・ラディン氏についても容疑者の呼称をつけて表現する。

その呼称の基準はどこにあるか。

その基準は日本に存在しない。

米国の基準、アメリカン・スタンダードなのである。

米国の金魚の糞に成り下がってしまっているのが、日本の現実である。

 

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