河野太郎とオルブライト
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マデリーン・オルブライトは1996年5月12日に放送されたCBSの番組「60ミニッツ」の中で、レスリー・スタールからアメリカの「制裁」でイラクの子ども50万人が死亡したことを問われ、「その代償に見合う価値がある」と答えている。
目的のためなら大量殺戮を厭わないということだ。
その翌年の1月にオルブライトは国務長官に就任、1998年秋にはユーゴスラビアに対する空爆を支持すると表明した。
1999年3月から6月にかけてNATO軍はユーゴスラビアへの空爆を実施している。
人権擁護を看板に掲げるアムネスティ・インターナショナル(AI)は2012年5月、「アフガン女性の権利に関する陰のサミット」を開催した。
その際、街頭に張られたAIのポスターには、「NATO:前進し続けろ」と書かれていた。
その催しのパネル・ディスカッションにオルブライトは呼ばれている。
「アフガン女性の権利」という名目で女性を含むアフガニスタンの人びとをNATO軍は虐殺するわけだ。
オルブライトはコロンビア大学でズビグネフ・ブレジンスキーから学んでいる。
ブレジンスキーは1979年4月、NSC(国家安全保障会議)でアフガニスタンの「未熟な抵抗グループ」に対する「同情」を訴え、CIAはゲリラへの支援プログラムを開始する。
ブレジンスキーはCIAと緊密な関係にあった。
ブレジンスキーは1977年1月にジミー・カーター大統領の国家安全保障補佐官に就任しているが、その年にパキスタンでは軍事クーデターがあり、ベナジル・ブットの父親であるズルフィカル・アリ・ブットの政権が倒され、陸軍参謀長だったムハンマド・ジア・ウル・ハクが実権を握った。
ハクはアメリカのノースカロライナ州にあるフォート・ブラグで訓練を受けた軍人で、ムスリム同胞団系の団体に所属していた。(Thierry Meyssan, “Before Our Very Eyes,” Pregressivepress, 2019)
ベナジル・ブット首相の特別補佐官を務めていたナシルラー・ババールによると、アメリカは1973年からアフガニスタンの反体制派へ資金援助しはじめている。
反体制派の選定はパキスタンの情報機関ISIのアドバイスに従った。
(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)
アフガニスタンにおける工作ではソ連との戦闘を想定、武装集団を編成している。
イギリスの外務大臣を1997年5月から2001年6月まで務めたロビン・クックが2005年7月に明かしたように、「アル・カイダ」はCIAの訓練を受けた「ムジャヒディン」の登録リスト。
アラビア語でアル・カイダはベースを意味、データベースの訳語としても使われる。
このリストを利用して武装集団は組織されてきた。
オルブライトはバラク・オバマ政権で国家安全保障問題担当の大統領補佐官を務めたスーザン・ライスを子どもの頃から知っていた。
スーザンの母親、ロイスはブルッキングス研究所の研究員で、自宅にオルブライトも訪れるほど親しくしていたのだ。
オルブライトはビクトリア・ヌランドやヒラリー・クリントンと親しい。
1980年にオルブライトはスミソニアン博物館のウッドロー・ウィルソン国際学術センターで研究を始める。
そこでポーランドの「連帯」運動をテーマにし、ポーランドを訪問、グダニスク、ワルシャワ、クラクフで反体制派にインタビューしている。
1982年に彼女はジョージタウン大学で教え始める。
その年に河野太郎が同大学へ入学、オルブライトのゼミに参加している。
1984年に河野はポーランドの中央計画統計大学へ留学、反体制派の神学生と一緒に連帯書記長のレフ・ワレサの自宅を訪問、ポーランド警察に逮捕され、留置所に連行されたという。
当時、すでに連帯とCIAとの関係は知られていた。
1982年6月7日にはロナルド・レーガン大統領が教皇ヨハネ・パウロ2世とローマ教皇庁の図書館で50分にわたり、密談している。
同じ時、別の場所でアレキサンダー・ヘイグ国務長官とウィリアム・クラーク国家安全保障補佐官が教皇庁の要人と会っていた。
カール・バーンスタインによると、レーガンと教皇は大半の時間をソ連の東ヨーロッパ支配の問題に費やされ、ソ連を早急に解体するための秘密工作を実行することで合意したという。
(Carl Bernstein, “The Holy Alliance,” TIME, Feb. 24, 1992)
1991年12月にソ連は消滅、アメリカが「唯一の超大国」になったと認識したネオコンが92年2月に世界制覇プランを作成、アメリカ国内を収容所化、国外で侵略戦争を本格化させていく。
その手始めがユーゴスラビアへの軍事侵略だった。