きなこのブログ

大失業時代が到来しています。大失業の恐ろしさを歴史から学ばなければならない。『大失業は戦争への道につながっている』

タッカー・カールソンのインタビューに激怒している勢力

 

タッカー・カールソンがロシアのプーチン大統領にインタビュー
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202402080001/

アメリカのジャーナリスト、タッカー・カールソンが2月6日、ロシアのウラジミル・プーチン大統領にインタビュー、ジョー・バイデン政権は激怒しているようだ。

 

EUにはカールソンの入国を拒否する動きがあるという。

カールソンはFOXニュースの人気司会者だったが、昨年4月21日に解雇されている。

 

 

彼に限らず、アメリカ支配層にとって都合の悪い報道をするジャーナリストはメディアの世界から追い出されてきた。

 

ウクライナパレスチナでは命が奪われている。

こうしたことはヨーロッパでも行われてきた。

 

例えば、アメリカのジョージ・W・ブッシュ政権がイラクを先制攻撃する際、イラク大量破壊兵器保有しているという話を作り上げたが、イギリスのトニー・ブレア政権はこのでっち上げに協力している。

 

2009年9月にブレア政権はイラク大量破壊兵器、イギリス政府の評価」というタイトルの報告書(9月文書)を作成、メディアにリークして人びとを脅しているのだが、これが嘘だったのだ。

その事実を2003年5月29日にBBCのアンドリュー・ギリガン記者がラジオで取り上げ、粉飾されていると語った。

 

アラステアー・キャンベル首席補佐官が情報機関の反対を押し切り、45分で破滅するという話を挿入したと言ったのだ。

事実を伝えたBBCはブレア政権から激しく攻撃され、ギリガンはBBCを追い出されるたが、それだけでなく放送局の執行役員会会長とBBC会長は辞任に追い込まれた。

 

この後BBCは単なるプロパガンダ機関になった。

ギリガンの情報源が国防省生物兵器防衛部門を統括していたデイビッド・ケリーだということをイギリス政府は探り出して尋問、その名前が7月9日にリークされた。

 

ケリーは15日に外務特別委員会へ呼び出され、17日に変死

 

手首の傷からの大量出血や鎮痛剤の注入が原因とされたが、手首の傷は小さく、死に至るほど出血したとは考えにくい。

 

しかも彼は古傷のため、右手でブリーフケースを持ったりドアを開けたりすることができなかった。

 

ステーキを切ることもできなかったと言われている。

(Miles Goslett, “An Inconvenient Death,” Head of Zeus, 2018)

現場に駆けつけた救急救命士のバネッサ・ハントによると、ケリーの左の手首には乾いた血がこびりついているだけで傷は見えなかったという。

 

ハントの同僚であるデイビッド・バートレットはケリーの服についていた血痕はジーンズの膝についていた直径4分の1インチ(6ミリメートル)程度のものだけだったと証言している。

 

そのほかにも不可解な点が少なくない。(前掲書)

日本の有力メディアも単なる宣伝機関になっているが、1960年代にはカールソンのようなジャーナリストもいた。

例えば、毎日新聞の外信部長だった大森実は1965年9月に北ベトナムの首都ハノイへ入って取材、アメリカ軍がハンセン病の病院を爆撃した事実を伝える。

 

その報道に激怒したアメリエドウィン・ライシャワー駐日大使から批判された大森は1966年1月に会社を去った。

 

毎日新聞以外もハノイ入りを狙っていて、朝日新聞の外報部長だった秦正流は大森より少し遅れてハノイ入りしている。

また、TBSのキャスターを務めていた田英夫は北爆下のハノイを取材し、「ハノイ田英夫の証言」を1967年10月に制作。

 

当時の日本政府はTBSの社長、担当常務、報道局長を呼びつけて叱責したが、アメリカ政府が怒ったということだろう。

 

その後、田はテレビから追放された。

勿論、今の日本のマスコミにそうした取材をする記者はいない。

 

権力者のお膳立てに従って動き、指示通りに伝えるだけだ。

 

 

 

 

カールソンによるプーチンへのインタビューを米国のエリートが恐怖する理由  
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202402100000/

​タッカー・カールソンが2月6日に行ったウラジミル・プーチン露大統領とのインタビュー映像が公開された​。

https://tuckercarlson.com/the-vladimir-putin-interview/

 

 

 

プーチンが過去に語ったことから逸脱する話はその中になく、「スクープ」があったとは思えない。

 

それでもアメリカでは大騒動だ。

 

 

 

プーチンはロシアがウクライナに対する軍事作戦を始めた理由を説明するため、中世までの歴史を語った。

 

 

現在の出来事は過去の出来事の結果であり、歴史は因果の連鎖だ。

 

ロシアとウクライナとの関係を説明するため、中世までさかのぼることは正しい。

 

ちなみに、日本とアメリカの関係を理解するためには戦国時代までさかのぼる必要があると本ブログでは考えている。

現在ウクライナとされている地域がソ連時代に形作られたことは本ブログでも繰り返し書いてきた。

 

ソ連消滅後、自分たちがロシア人だと考えているウクライナの東部や南部の人びとは西部から離脱しようとしたが、それは実現しなかった。

 

ウクライナ新自由主義化しようとした西側の巨大資本黒海に面した南部、そして資源が豊富で穀倉地帯の東部を欲しかったのだ。

しかし、東部や南部の住民だけでなく、ウクライナ人の多くはロシア人との対立を望んでいなかった。

 

そうした中、ロシアとの関係を重視するビクトル・ヤヌコビッチは2004年11月に行われた大統領選挙で勝利する。

 

そこで始まったのがオレンジ革命だ。

選挙の直後からユシチェンコ陣営は選挙で不正があったと主張し、デモや政府施設への包囲を始めて国内を混乱させて政権奪取に成功したのだ。

 

そしてアメリカは新自由主義者のビクトル・ユシチェンコを大統領に据えることに成功した。

ユシチェンコは2005年1月から10年2月まで大統領を務めるが、彼の導入した新自由主義的な政策は一部の腐敗勢力に富を集中させてオリガルヒと呼ばれる富豪を生み出す一方、大多数の庶民を貧困化した。

 

そこで、2010年の大統領選挙でユシチェンコが再び勝利し、大統領に就任した。

 

そこでアメリカ支配層は2013年11月から14年2月にかけてクーデターを実行するのだが、その手先はNATOから訓練を受けたネオ・ナチだった。

クーデター体制になると軍や治安機関のメンバーのうち約7割が離脱し、東部や南部の住民もクーデターを拒否する。

 

南部のクリミアに住む人びとはロシアの保護下に入り、東部のドンバスでは内戦が始まった。

 

その際、軍や治安機関から離脱した人びとの一部ばドンバスの反クーデター軍へ合流したと言われている。

そのため反クーデター軍は強く、アメリカはクーデター体制の戦力を増強し、要塞線を築くために時間が必要になった。

 

そこで出てきたのがミンスク合意にほかならない。

 

その合意で仲介役を務めたドイツの​アンゲラ・メルケル​(当時の首相)は2022年12月7日、ツァイトのインタビューでミンスク合意は軍事力を強化するための時間稼ぎだったと認めている。

 

 

その直後に​フランソワ・オランド​(当時の仏大統領)はメルケルの発言を事実だと語った。

 

 

アメリカ/NATOは8年かけてクーデター体制の戦力増強に努める。

 

武器弾薬を供給、兵士を訓練、さらにドンバスの周辺に要塞線を構築したのだ。

この地域にはソ連時代から地下要塞が作られていた。

 

その中には親衛隊の中核だったアゾフ大隊が拠点にしたマリウポリ、岩塩の採掘場があるソレダル、その中間にあるマリーインカも含まれていた。

ロシアとの軍事的な緊張を高めると同時に経済封鎖を推進してきた西側の勢力はカールソンのインタビューに激怒している。

本ブログでは繰り返し書いてきたが、イギリスの支配層は19世紀からロシアを征服しようとしてきた。

 

そのロシアと新興国ドイツを戦わせようとしたのが第1次世界大戦だ。

 

その当時、戦争に反対する大地主戦争に賛成する資本家が対立、グレゴリー・ラスプーチンフェリックス・ユスポフがそれぞれの象徴的な存在だった。

 

ユスポフと親しかったスティーブン・アリーとオズワルド・レイナーはイギリスの対外情報機関MI6のオフィサーであり、ラスプーチンを実際に射殺した拳銃を所持していたのはレイナーだ。

ラスプーチン暗殺後、ロシアでは二月革命」で資本家が実権を握るが、それを嫌ったドイツがボルシェビキの指導者を列車でロシアへ運んでいる。

 

そして「十月革命」が起こり、ボルシェビキの体制が成立。

 

ソ連とドイツはナチスが台頭するまで友好的な関係を維持した。

そのソ連との関係修復を訴えたのがアメリカのジョン・F・ケネディ大統領だ。

 

1963年6月10日、アメリカン大学の卒業式で「平和の戦略」と呼ばれる演説を行い、ソ連と平和共存する道を歩き始めると宣言している。

その演説の冒頭でケネディは軍事力で世界に押しつけるパックス・アメリカーナアメリカ支配による平和)」否定アメリカ市民は「まず内へ目を向けて、平和の可能性に対する、ソ連に対する、冷戦の経過に対する、また米国内の自由と平和に対する、自分自身の態度を検討しはじめるべき」長谷川潔訳『英和対訳ケネディ大統領演説集』南雲堂、2007年)だと語りかけたのだ。

ソ連アメリカとの間で全面戦争が起こればいずれの国も破壊されるとケネディは主張、冷戦の段階でも「両国はともに無知と貧困と病気を克服するためにあてることができるはずの巨額のカネを、大量の兵器に投じている」警鐘を鳴らし、最後に「われわれは人類壊滅の戦略に向かってではなく、平和の戦略に向かって努力し続けるのです」と語り、演説を終えている。(前掲書)

その年の11月22日、テキサス州ダラスでケネディ大統領は暗殺され、この戦略が実行に移されることはなくなった。

 

ソ連/ロシアとアメリカが友好的な関係を築くことを恐れている勢力はタッカー・カールソンのインタビューに激怒しているだろう。

 

 

 

 

言論統制が強化されている米国 ~ChatGPTに置き換わる~